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信長はチャートがお好き?:小牧山城の地形と地質【お城と地形&地質 其の十】

戦国時代の「城」は、様々な理由でそこに建っています。
その地域を治めるために立地が良いとか、政治的な意味もあるでしょう。
そして何より他大名との戦での「守りやすさ」も重要です。
そのような「お城」を地形・地質的観点から見ていくシリーズ。
今回は小牧山城です!

前回のお城はコチラ👇


小牧山城とは?

小牧山城は織田信長が1563年に新しく建設した城です。
もともとは「砦程度のもの」と考えられていましたが、近年の発掘調査の結果、清洲城に代わる新たな拠点として建てられた城だと判明したそうです(ウィキペディアより)。

また信長の死後は、小牧・長久手の戦いの時に、徳川家康が陣城として活用しています。

小牧山城の位置:スーパー地形画像に筆者一部加筆

小牧山城は名古屋市(上図の着色範囲)の北の小牧市にあります。
信長のもとの拠点であった清洲城(清須市)から北東に約15kmの距離にあります。

なぜ拠点を移したのか?

そもそも信長は、なぜ拠点を移したのでしょうか?
小牧山城を建設した1563年と言えば、桶狭間の戦いで勝利した後、東の豊田市方面を平定したり、徳川家康と同盟を組むなど東方の守りが固まりつつあった時期です。
また北近江の浅井氏とも同盟を結び、いよいよ本格的に美濃をとりに行こうかと言うタイミング。

そうなんです。
美濃への侵攻を進めるために、稲葉山城により近い場所に拠点を置きたいという事で建設されたのが、小牧山城なのです。

小牧山城と稲葉山城の位置関係:スーパー地形画像に筆者一部加筆

城の位置関係を見れば一目瞭然ですね。
確かに小牧山城は稲葉山城に近い位置にあります。
と言ってもそこまで近いわけでもない。なぜここなのでしょう?

信長は本当はもっと北にしたかったらしいのですが、城下町ごとの移転は大変で、「遠すぎる!」と家臣団から反対されたそうです。
そこで折衷案として小牧山になりました。

でも稲葉山城に近い場所を考えるなら、もっと西の方が清洲城から離れすぎず、かつ小牧山城よりも稲葉山城に近い場所はあります。
なぜもっと西にしなかったのでしょうか?

その理由は、地形を見れば分かります。

小牧山城の地形

ではさっそくズームして小牧山城の地形を見てみましょう。

小牧山城周辺の地形図:スーパー地形より抜粋

小牧山城は上図の真ん中にちょこんと立っている可愛らしい山の頂上に建設されました。
その標高は約85m。周囲の平坦地との落差は60mほどです。

決して高い山ではありませんが、周囲は平野部であり、かなり見通しが良いようです。
敵が攻めてきたとしても早い段階で察知でき、城から離れた場所で迎撃できます。また城の近くでは東西それぞれに川があり、天然の堀として防御の要になるでしょう。
つまり、守りやすい地形条件だと言えます。

小牧山城と清洲城周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

清洲城周辺の地形と比べてみましょう。
上図の通り、清洲城は標高の低い(5m未満)平野部に建つ平城です。
河川に隣接した立地ではありますが、守りと言う点では心細く感じます。

一方の小牧山城は、平坦地の中の小高い山の上。
平坦地と言っても標高20mほどの台地であり、近づくまでにいくつかの段差を登ってくる必要があります。
やはり「守り」の点で清洲城よりも優秀であったと思われます。

恐らくですが、信長はもともと「守り」の点で清洲城に不安を持っていたのではないでしょうか?
拠点の移転は「稲葉山城に近い場所に」を主目的にしていますが、実は「もっと守りやすい城の方が良い」と言う理由もあったと思われます。

小牧山城の地質

「守りやすさ」で選ばれた小牧山は、どのような地質でできているのでしょうか?

小牧山周辺の地質図:5万分の1地質図幅「名古屋北部」(坂本ほか1984)より抜粋

真ん中の小牧山だけ、濃いオレンジ色に塗られています。
これは古生代ペルム紀~中生代三畳紀(約3億~2億年前)チャートです。
チャートは深海に溜まったプランクトンの殻が固まった岩石であり、非常に硬く、ハンマーで叩くと火花が散るほどです。

硬いため侵食から残り、比較的急斜面の山になったのでしょう。
また上の地形図を見直すと分かるのですが、小牧山は西よりも東の方が急斜面です。
これにも理由がありました。
上の地質図の記号を見ると、チャートの層理面は西に40~50度傾斜です。

小牧山の模式断面図:スーパー地形の機能で作成した断面図に筆者一部加筆

東西方向に切った断面図です。
チャートの層理面はこのように傾いています。
一般的に地層が傾いた方向よりも逆側の方が侵食に強く、急斜面になります。
城の建つ頂上付近に急斜面があり、そういう観点でも守りやすい城ですね。

ちなみに、小牧山城が信長の本拠地として使われたのは4年のみであり、その後は美濃の岐阜城(稲葉山城)を居城にします。
その岐阜城も、奇しくもチャートの山の上に建つ城です。
信長はチャートが好きだったのでしょうかね?(笑)

今回は以上です。
お読みいただき、ありがとうございました。

引用・参考文献

坂本 亨・桑原 徹・糸魚川淳二・高田康秀・脇田浩二・尾上 亨(1984) 名古屋北部地 域の地質.地域地質研究報告(5 万分の 1 図幅),地質調査所,64 p.

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