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満員電車に揺られながらでも瞑想できるのがほんとうの瞑想ってもんだ
ぼくは毎朝仏壇と神棚に十数秒だけ手を合わせるのだが、それがうまくいく日とうまくいかない日がある。毎朝のことなのに、うまくいく日といかない日がある。
そのちがいがどこから生じるのか、今日気がついたんだけど「プチ瞑想状態に入れるかどうか」である。わずか10秒でスッと意識状態を変えられるかどうかにかかっている。
今、ぼくはいそがしい。とてもいそがしい。こんなものを書いている場合ではない!いそがしくてβ波出まくりのキリキリ状態である。でもそういう日でも手を合わせた瞬間にふっと
>本当に大切なのはこちらの方だ
>締め切りに間にあうかどうかなどほんとはどうでもいいことだ
という意識状態に入れたら成功である。もちろん、そんなにうまくいかない日もあるけどやっていればだんだんうまくいくようになる。
以前にも紹介した塩沼亮潤 大阿闍梨というお坊さんがいるが、この人は大峰千日回峰行という荒行を成し遂げた人である。たいへんな荒行だから途中で気を失ったり泣いたりしたそうだ。
そこで精神のバランスを崩して死へむかっていってしまう行者さんもいるという。仕事でいえばキャパオーバーである。しかし塩沼さんは999日目に至って「行をさせていただいているのだ」「ありがたい」という心境にたどり着いてしずかな気持ちで行を終えた。
そこまでやる必要はないけど、999日目のかれの感謝の心が、いたれりつくせりの温泉旅行のとちゅうで「いい湯だな。ありがたい」といっているのとわけちがうのはわかるだろう。
瞑想だってそうだ。ハワイの気持ちのいいところでならだれだってやれる。しかし、満員電車に揺られながらでも瞑想できるのがほんとうの瞑想ってもんである。
仕事も同じだ。キリキリと仕事をするのとおちついて仕事をするのではおなじ分量のしごとをやっても値打ちが違うと思うのである。キリキリやるのは賃金を稼いでいるだけのことである。その対価としてストレスをためているだけだ。
というわけで、明日の朝までこの忙しさの中にこころを飲まれることなく、しっかりと落ち着いた気持ちでやりきってみたいもんだ。そういう状態になりたくて仕事をやっているようなものだと自分で思う。