あの寂しさはなんだったのか
放浪癖と呼ばれるものがある。
ぼくはインドア派なので放浪とはまったくの無縁なのだが、家族がかなりの放浪型だ。たとえば「牛乳がないので買いに行く」といって午前中に出ていったきり夕方まで戻ってこなかったりするのはしょっちゅうである。
ご両親にさいしょにお会いした時にも「出ていったら帰ってこないタイプだから」とくぎを刺されていたのだがこれほどとは思わなかった。
一緒に歩いていてもまっすぐ歩くことがなく、「あの花がきれいだ、この家が取り壊されている」といってしょっちゅう立ちどまるのでぜんぜん前に進まない。ぼくは時速5kmと決めたらその速度で8000歩進みたいタイプなので合わない。
ちなみにいぜん整体に行ったときに背骨を触られ「あなたはフラフラする人でしょう?」と当てられたそうである。体を触られただけで当たるのだから本物だ。フラフラしている人は背骨にもフラフラしたところがあるのだろう。
そんなわけで、フラフラしている人のことを理解できないぼくなわけだが、そうはいっても実は若いころはフラフラしていた時期がある。
ひとり暮らしのころ、たとえばレンタルビデオを返しに行ってそのまま部屋に戻る気になれず、なんとなーく商店街を歩き回ったりしていた。
なじみのバーでもあれば格好がつくけどそんなものもなく、本屋で立ち読みし、CDショップを物色し、洋服を見てから、居酒屋でビールを飲んで帰るのがせいぜいだったが、あれは放浪癖ではなく今思えば寂しかったのだろう。
あのさびしさが今となってはよくわからないのだが、若いころ強く感じていたのはまちがいない。
それからバイクに乗っていたころ、わざとめちゃくちゃに道を曲がって知らない町角に迷い込むのが好きだったこともある。はためには一種の放浪癖に見えるかもしれいないが、これも単に寂しかったのだ。そして知らないまちのスーパーの駐車場で夕暮れ時にバイクを止め、晩御飯の買い物をしている人たちが出たり入ったりするのを眺めていた。「これから家族とご飯を食べるのだろうな」としみじみしていたのでやはり寂しかったのだろう。
放浪癖のあるなしにかかわらず、妙に人寂しくなり雑踏をうろうろしてしまう時期は誰の人生にもあるのかな。
いまは時間があればやりたいことがありすぎてフラフラする気になどなれないがこれは年を取ったからだろうか。それにしてもあの寂しさの正体はなんなのだろう。みんなとおる道なんですかね?あるいは年齢にかかわらず、いくつになっても人さみしくて雑踏に出ていく人もいるのだろうか。