50代になって初めて「嗚呼サーフィンしたいな」と思った
ぼくは、昨晩、江の島に滞在し、とびきりいい酒を飲み、温泉に入った。オヤジの王道路線だ。そして今朝は鵠沼(くげぬま)海岸を散歩していたんだけど、そこでいきなり思ったのである。
嗚呼、サーフィンしたいな
と。ちなみにこないだ54歳になったばかりだ。
さて、神奈川県の江の島あたりには、年がら年中、毎朝サーフィンをやっている連中がいるが、
どうやって生計を立てているんだろう?
と、前々から不思議に思っていた。しかし、そこに混じりたいと思ったのは初めてのことだ。
釣りが好きな人でも、毎日はいかない。
毎日釣ったらそれは漁師である。
しかし、江の島のサーファーは毎日、波にのる。
毎朝サーフィンしているのだから、電車に乗って会社に通っているとは思えないが、だからといって、全員が全員、成功したグラフィックデザイナーだとも思えない。
とにかく、毎朝、何百人ものサーファーが自転車にサーフボードをくくりつけて鵠沼海岸にやってくるのだ。夏にも冬にもやってくる。
ぼくより年配の人も来ていたし、夫婦で通っている中年の人もいた。こういうことが、もう何十年も連綿とつづいているらしい。
ひとつだけいえることがある。月曜日の朝にサーフィンに来るような人にとってのサーフィンは、休日のレジャーでも、マリンスポーツでもない。
生活そのものだ。
そして、ぼくはそういうサーフィンに惹かれたわけだ。
休日のレジャーに興味はないし、上手に乗りたいとも思わない。つまりスポーツとしてのサーフィンに興味はない。
波に乗るどころか、立てなくてもいい。サーフボードにまたがって波を待っているだけでいい。
ただし、春夏秋冬、毎朝かかさず行き、毎朝、波に揺られたい。
それは、海岸を散歩したり、ジョギングしたり、釣りをしたりすることとはなにか決定的に違っている感じがしたのである。
これに気づいたのが今朝のことなので、なんとか文章に定着させたいのだがうまい言葉が出てこない。
他に似たような感じのものというとそうだな・・ハワイに移住して、毎朝海岸で瞑想すると、似たような感じになるかもしれない。
あるいは、ジャック・マイヨールみたいに、毎日、素潜りするとか・・。
「海のヒッピー」という感じだろうか。その手のことを、無性にやってみたくなったわけだ。
春も夏も秋も冬も、毎日波に浮かんでいたら人生がガラッと変わるだろう。こせこせした考えも浮かばなくなるだろう、と。
さて、話は変わるが、最近、依存症というものに目をつけている。
依存症は、ぼくらが思っているよりもはるかに深刻で、広範囲に社会に影響を与えている可能性がある。
たとえば最近、映画界での性暴力のニュースが相次いでいるが、あれはたぶん「セックス依存症」なのである。
もちろん、被害者がいることだから、病気というだけで片付けるわけにはいかない。犯罪としてしっかり対応しなければならない。けれども、依存症という面も否定できないのである。
ああいった行動に出る人は、けっして「性欲のモンスター」ではない。性欲よりも権力欲や支配欲やストレスなどとの関連性が強い、ということをこの本で知った。
ゆがんだ承認欲求、トラウマの自己治療、一時的なストレス解消、周囲へのSOS・・・さまざまな要因が絡み合った結果としての脅迫的性行動が性依存症の本質と言えます。(p.147)
タバコや酒やドラッグで気晴らしをするように、覗きや痴漢や万引きに手を染め、そして、タバコや酒や覚せい剤をやめられないように、覗きや痴漢や万引きを「脳が」やめられなくなっている。
そして、この考えをもうちょっと広げていくと、世間で競争にさらされ、ストレスをためて生きている人たちは、みな、なんらかの形で依存症を抱えているはずだと思えてくるのである。
昨晩からこの本を読み、そういうふうに気持ちが鬱屈していたところだった。そこで、毎朝サーフィンしている人々に出会って、依存症のことなどを考えるのがばかばかしくなってきたわけだ。
ああだこうだと考えるよりも、ぼんやり波に揺られているほうがいい。(ちなみにマスクしているサーファーはいませんでした)。
ただし、かれらを特別視する気はない。サーファーにだって性犯罪者はまじっているかもしれないし、優越感や承認欲求のために波乗りしている人もいるだろう。
それでも波中心の生活をしている人の中には、「世間の競争から降りた人」も混じっていそうな気がするのだ。それは、斎藤氏の言う「依存症から回復した人」と似ているのではないか。
(依存症から)回復した方々と話すと、彼らには共通して「悟り」を得たような雰囲気を感じます。頑張っていない。パワーゲームや競争から降りている。ラクに生きているという印象すら受けます。(p.168)
もしぼくがいまから「波に乗れない波乗り」として、春夏秋冬、湘南海岸で波に揺られていれば、都会でああだこうだ考えるよりも、もっとおおらかに、ラクに、世間から降りて、自然と一つになれそうな気がした。