自己治療に役立つ映画とは?
こないだ「若い女性のアルコール依存症が増えている」という記事を書いたんだけど、あのとき指摘したように、若い女性には過度のストレスを抱えた不安定な人が多く、そしてアルコールが「自己治療」として使われるケースが多いそうだ。
「自己治療」とは、自分の繊細さに振り回されている自分をなんとかしたいということであり、アルコール以外にドラッグが乱用されるケースもある。
トー横キッズのあいだではドラッグのオーバードーズが増えているそうだが、あれも「誤った自己治療の典型」みたいなものだろう。
自己治療としての読書
さて、薬物に頼るのが誤った自己治療だとするならば、好ましい自己治療にどういうものがあるかというと、昔から推奨されているのは
ことだ。悩みを抱えた人には「本を読め」とすすめられることが多いし、
という体験談を語る人も結構いる。
ネットでは「会社で人間関係がうまくいきません。どうしたらいいでしょうか」というお悩み相談に対して
という答え方をする人は多く、この手の人生相談の代表選手と言えば、かつては評論家の佐藤優さんだったし、現在の代表選手というと読書猿さんがそうだろう。お二人とも、読者から寄せられる悩みごとにたいして「この本を読みなさい」という形で回答して、それがウケている。
読書は漢方薬みたいなもの
悩み事への回答になっていると同時に優れたブックガイドにもなっているところがいいのだが、ただし、ぶっちゃけて言わせてもらえば、
ということは言える。
ただし、読書そのものが悩みの解決に役立たないかというとそんなことはなくて、読書で悩みを解決することはできるのだが、そのためには1冊ではなくて
のである。本というのはクスリに例えるなら西洋医学のクスリではなくて、漢方薬みたいなものだ。
西洋医学のクスリは、風邪をひいたら風邪薬、アタマがいたいときには頭痛薬。胃が痛いときには胃薬。精神が不安定な人には精神安定剤というふうに対処療法的に処方していくけど、読書は、そんなふうに、
というようなタイプのものではない。仕事に悩んでいる人にはこの本を、人間関係で悩んでいる人にはこの本を、男女関係に悩んでいる人にはこの本を・・
的なものではないのだ。
本というクスリは、風邪をひかない体質改善に役立つタイプのクスリである。
風邪をひかない体を作るには、運動も必要だし、睡眠も必要だし、食生活も改善しつつ、じわじわと体質を変えていく必要があるが、本を読むという行為もおなじで、あれやこれやと、じわじわとたくさんの本を読むことで、総合的に知性を鍛えて、最終的に悩み事にふりまわされない問題解決能力を養うためにに役立つものだ。
1冊読んですぐ何とかなったりはしないのである。
佐藤優さんも読書猿さんも、そんなことは重々承知のうえだと思うし、そのうえで、あくまで「生業(なりわい)」として、ブックガイドを兼ねたキャッチ―なお悩み相談をやっておられるのだろう。
自己治療としての映画
さて、そういうわけで、読書には即効性はないけど、確実に自己治療に役立つ漢方薬みたいなところがある。
そして本だけでなく、映画にもそういうところがあると思うのである。理屈で考えてそう言っているのではなくて、ぼくの個人的な体験からそうだと断言できる。
ただし、昨日の記事で書いたような
は自己治療の役には立たない。昨日紹介した『ポリスストーリー3』とか『13日の金曜日 完結編』は、こころの漢方薬というよりむしろ
に近い。マニアというのは、ジャンクフードを語り合ってよろこぶものなのだが、清く正しい映画ガイドというのは、あれではいけないのだ。
映画のおかげでコミュ障を免れた
なぜそのようなことを急に言い出しているか言うと、昨日の記事を書いてから現在までの間に気づいたことがあるからだ。
ここ数年、ぼくは歴史マニアとか国際情勢マニアとか政治マニアみたいな、これまであまり縁のなかった人種と付き合うことが増えた。そして、そういう人種の中には、一定の割合で、コミュニケーション能力の障害を抱えた人が混じっている。
今日、とあるライブ配信のチャットに参加していてつくづく思ったのだが、その手のコミュ障ほど、「声が大きい」ので、チャットは全体として
様相を呈する。そのこと自体は、前々から気づいていたんだけれども、今日はふと
という過去を思い出したのだった。しかし、そうならなかったのは映画のおかげだ。
この話を語り始めればきりがないので、今日は入り口だけで終わるけど、ぼくも一歩間違えれば立派なコミュ障として、あんな感じになっていた自信がある。
まともな作品たちに感謝
ただし、映画のおかげとはいっても『13日の金曜日』みたいなイカれた映画のおかげでコミュ障にならずにすんでいるのではない。
のおかげなのだ。「まともな作品たち」とは、アカデミー賞をとるような優れた作品のことである。
ぼくは小学校の頃からの映画好きだが、もともとエキセントリックな性格ゆえに、映画に対しても偏愛というか、偏食が強かった。大学生になるまでは、アカデミー賞をとるような作品は、
と吐き捨てて無視していたのだが、あのままなら、今頃は確実にコミュ障になっていたことだろう。
しかし。そのころいろんなことがあって(このあたりは省略します)、まともな映画もムリをして観るようになったのである。20台の前半のことだ。
芸術映画はホラー映画と大差ない
ちなみに、ぼくの言う「まともな映画」の中には、タルコフスキー作品も、ロベール・ブレッソン作品も、ヴィスコンティ作品も入らない。
これらは芸術作品と呼ばれるタイプの映画だが、「芸術=まとも」というのは勘違いも甚だしいのであり、そもそも芸術というのはイカれたものであって、ホラー映画と大差ないのが実情である。
芸術映画は、コミュ障を助長することはあっても、治療の役には立たない。このことをわかりやすく言い換えるなら、芸術映画をいくら見ても
ということだ。
そういう側面があるからこそ、ぼくがあのまま芸術と哲学に入れあげていたら、確実にコミュ障になっていたであろうと断言できる。歴史や政治に入れあげたおかげで、今チャットをカオスにしているマニアたちと同列になっていただろう。
さて・・このあたりザっと書いていますが、かなり微妙なところを突いています。
その「微妙な部分」は、勘の鋭い人にはすでに伝わっていると思うけど、今日の記事だけで詳述はできないので、今後の記事でだれにでもわかるようにすこしずつ説明していく予定です。
自己治療に役立つ映画とは?
そんなわけで、「自己治療に役立つ映画」というのは、『パルプフィクション』やら『フェリーニのローマ』やら『ルードヴィヒ 神々の黄昏』などではない。
こういうのばかり見ていると、確実に精神がイカれていく。芸術はドラッグと変わらないのだ。
自己治療に役立つ映画とは、『英国王のスピーチ』だとか、『ドライブ・マイ・カー』だとか、『善き人のためのソナタ』のような作品だ。
とはいえ、すでに還暦を過ぎているコミュ障の人が、今から「まともな作品」を見ても役には立たないだろう。還暦どころか30歳を過ぎてもちと厳しいと思う。
そういう人は、一生コミュ障を背負っていくしかないけれども、それもまた人生である。あまり関わりたくないけどまあがんばってくださいな。
ぼくがラッキーだったのは、20代の前半に、「まともな映画」を見ようと努力し、強引に路線変更した時期があったということだ。
「まともな映画を理解できるようになる」とは、他人の気持ちを理解できるようになることと同じだ。天才は他人の気持ちなど理解しないので、天才の作った映画ばかり見ていても人の気持ちを理解できるようにはならないのである。
ただし、このあたりはかなり線引きが微妙なところもあり、たとえば溝口健二の『雨月物語』を何度見ても他人の気持ちがわかるようには絶対にならないが、小津安二郎の『東京物語』を”ていねいに”見れば他人の気持ちはわかるようになる。
ただし、それも20代までにやっておかなければ難しい。
これまではカッコをつけすぎていたと思う
その点、繰り返すがぼくはラッキーだった。そして今、それほどラッキーでなかった人々の作り出す「惨状」を目の当たりにしているわけだが、それを見ていると、ラッキーだった自分がそのラッキーを棚に上げて、『13日の金曜日 完結編』みたいな作品ばかりを持ちあげるのは、ちとカッコつけすぎというか、違うのではないだろうかと思うようになった。
ぼくはまともな映画を理解できないわけではなく、『英国王のスピーチ』のよさも十分に味わっているのだが、カッコをつけて(つまりウケ狙いで)触れないだけだ。
とはいえ、すでに書いたように生まれつき理解できていたのでもなく、20代の前半に努力してなんとか理解できるようになったわけで、そのおかげで、いま「痛々しい人」にならないで済んでいる。
ならば、映画に感謝するという意味では、大好きな『ゴダールの探偵』(高校時代から好き)を語るよりも、『善き人のためのソナタ』のよさを語ったほうがいいのではないだろうか。
以上をまとめると、芸術映画は心を狂わせますが、良質な映画は心の治療に役立つということです。今日のところは、「そう言うことを思いました」という所でいったん終わるけど、今後、少しずつ記事の内容に反映されていくことになるだろうと思います。