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ウソのない別れの言葉

いきなりだが、ぼくは死刑というものにオブセッション(強迫観念)がある。オブセッションとは「アタマから追い払うことのできない考え」ということで、一歩まちがえればこころの病気である。

高校時代に死刑に関する本を読んでからこのオブセッションがはじまったんだけど、それについてはすでに記事を書いたことがある。(マブチモーター事件

とはいえ、ぼくは死刑の是非を唱えているわけじゃない。「廃止しろ」とも「存続すべき」とも思っていない。ただ

わからない

と思っている。

ぼくにとって死刑とは、世の中の不条理の結晶みたいなものである。フランツ・カフカの『審判』を読んでいるような気分ともいえるし、、映画『2001年宇宙の旅』にでてくるモノリスを見ているような感覚だともいえる。

いくら考えてもなにもわからないし、なんの結論も出ないのだが、目をそらすことのできない大きな壁みたいなものである。

昨日もそうだった。そもそも加藤死刑囚執行のニュースに接してから考え始めたのではない。その直前に、ぼくはトイレに座って「死刑執行のボタンを押した元刑務官の証言動画」を見ていたのである。これだ。

それを見て考えにふけっているときにあのニュースが飛び込んできた。なので、今から書くことは、加藤死刑囚の執行についてではなくて、正確には

執行直前に考えていたこと

である。この元刑務官氏の証言たいへんリアルなので一見の価値はあるとおもうけど、ぼくがひっかかったのは以下のくだりである。

「(刑場に向かう廊下では)1分1秒でも生きながらえたいという人間的本能で、世話になった職員、顔見知りの職員を見つけると走り寄っていって『先生お世話になりました』とひとりひとりに挨拶していくわけです。ところが職員はどう答えていいのかわからないんです。『元気にやれよ』とは言えません。『しっかりやれよ』とも言えません。泣きながら手を取られると、職員も辛いんです。返す言葉がないんです。だから『前へ進め!』と促して進んでいきます。

たしかに、そのとおりだ。職務とはいえ、これから死に至らしめようとしている相手から「お世話になりました」と言われて「元気にやれよ」とは言えない。

そもそも、「しっかりやれよ」とか「元気にやれよ」というのは、あたりさわりのないあいさつみたいなもので、本当に「しっかりやってほしい」とか「元気でいてほしい」という気持ちがなくてもとりあえず言っておけば丸く収まる。

中身がないのは死刑囚の「お世話になりました」も同じことだ。ほんとうの感謝の言葉ではなく「1分1秒でも生きながらえたいという人間的本能」のあらわれなのだから。

こういうむき出しの本能に対して、丸く収められるあいさつというのは見当たらない。本音を言うなら、「ごめんな」とか「俺だっていやなんだよ」になるのだろうが、そう言うわけにはいかない。

この元刑務官氏は「被害者遺族に代わって敵を討ってやらにゃいかん」という使命感に燃えていたそうだが、だからといって「死ね」とも言えないしなあ。

あえていうなら

さようなら

だろう。

さようなら、お元気で

言ってしまうとウソになるので「さようなら」だけにすべきだが、しかしちょっと冷たい。

ちなみに007シリーズなどのアクション映画で、悪者がボンドに銃口を向け引き金を引こうとする直前にいうのはだいたい「さようなら」だ。

「死ね!」などという悪役はいない。ニヤニヤしながら「グッバイ、ミスターボンド!」と言いつつ引き金を引こうとして、逆転されるのがお決まりのパターンである。

これが冷たいと感じるなら、名前を呼ぶのがいいだろう。

加藤君

とだけ言う。ちなみに英語のあいさつで一番大事なのはヘローでもグッバイでもなく、相手の名前である。

「ヘロー、ジョン!(こんにちはジョン)」を短く言う場合、名前をはぶいて「ヘロー!」にするのではなくて、相手の目を見て「ジョン!」とだけ言う。あいさつとは「相手の存在を認めること」なのだというのがよくわかる。

だから「お世話になりました」と言われたら「加藤君!」とだけ言いながら目を見るのがいいのかもしれない。そこには肯定も否定もない。ただ相手の存在を受け入れているだけだ。

「名前だけを呼ぶ」というのは、ほかになんと答えていいかわからないときには一番心のこもったあいさつではないかと昨日思いました。

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