エネルギーを生み出すのは「振れ幅」
大都市と地方都市のちがい
ぼくはここ数年、首都圏と地方を往復する生活を送っている。
頻繁に行き来していると両者のちがいについて感じさせられることが多いのだけど、いちばんのちがいはダイナミズム(力強さ)にあると思うようになった。かんたんに言えば、大都市のほうが、なにごとも振れ幅が大きい。
東京には、超富裕層だけが集まる場所もある一方で、ホームレスだけが集まる地区もあり、そのあいだで有象無象の人種がうごめいている。
一方、地方都市というのは、よくもわるくも振れ幅が小さい。金持ちといってもそこそこの金持ちしかいないし、貧乏人といってもそこそこの貧乏だ。
田舎はよくいえば「適温空間」であり、頂点に上り詰めることもできないかわりに崖から転落する怖れもない安心な場所だといえる。一方の大都市は、楽園と死の谷が隣り合わせの場所だ。
まあ、東京程度なら世界の目線で見ればまだ「適温都市」のほうだろう。しかし、ニューヨークにいけば、トランプタワーに集っている超富裕層からそれほど離れていないブロックで、薬物中毒者がゾンビのように歩いている。
デリーやムンバイになればもっとすごい差があるだろう(いったことはないけど)。この振れ幅こそが大都市のエネルギーの源ではないか。
映画とテレビ
じつは、映画とテレビにも似たような違いを感じていて、映画を大都市にたとえるなら、テレビには地方都市みたいなちがいがある。そして、今日書きたいのは都市論ではなくて「映画のそういうエネルギッシュなところがイイ!」という話であいかわらず映画のことなんだけど、「エネルギーはどこから生まれるか」という一般論としても参考になるのではないだろうか。
さて、世間では、映画が高尚なモノで、テレビが低俗なモノみたいな印象を抱いている人がいるかもしれないけど、そうではない。
映画の中には、たしかに人類史に残るような名作もあるけれど、正視に耐えないなおぞましい作品もある。その振れ幅がデリーやムンバイ並みにが大きいのが映画であり、これが映画の力強さの源になっている。
一方のテレビは、なんといっても公共の電波であり、たくさんの人が見るものだから、公序良俗に反するようなおぞましい作品は流せないし、人類史に残る名作ばかりでも視聴率を稼げない。
よくも悪くも、放送コードという適温の範囲内で、ぬるい表現が続く地方都市のような世界だ。
右へ倣え
田舎は人口が小さくて多様性がない分、住民のムードが一つの方向に流れやすいけど、そのあたりもテレビと似ている。キー局は、大きな事件が起こると右へ倣えで朝から晩までそのニュースしか放送しない。
もっとも、テレ東だけはちがうという話があって、これがいわゆる「テレ東伝説」と呼ばれるものだ。たとえば最近では「眞子内親王殿下ご成婚」のニュースを各局が放送しているあいだに、テレ東だけは午後のロードショー『ブレイド』をやっていた。
これはテレ東の強さのように言われており、実際そういう面もももちろんあるけど、半面、映画の持つ強さでもある。
もし、大災害のニュースの裏でTBSが『半沢直樹』を放映したとしよう。そうすると、堺雅人さんのイメージが傷ついたり、バッシングを受けたり、今後のキャリアに影響が出たりするかもしれない。しかしテレ東が『沈黙の戦艦』をいくら放映しても、スティーブン・セガールはビバリーヒルズの自宅のプールでくつろいでいるだけで、びくともしない。これが映画の持つ強さだ。
映画は、館内の照明が消えれば外の世界とは切り離された独立した世界が生まれる。高尚なものも、おぞましいものも、ドエロいものもやり放題である。
映画の魅力は振れ幅
このnoteに映画のあれこれを書くことが増えてから、映画というものの本質的な魅力はなんなのだろう?ということをよく考えるようになった。
もちろん、すでに書いたように「いろいろ」あるのが映画なのだから、高尚な魅力からおぞましい魅力まで、魅力も「いろいろ」あるのはもちろんだ。
しかし、そういう理屈を越えて、映画のコアファンが共通して抱いている「映画のコアな魅力」みたいなものがある感じがしていて、それを一言で言うなら、
ごった煮の魅力
だと思うようになった。なんでもありの強さというか、映画の魅力は振れ幅の大きさだという確信が僕の中で生まれつつあり、言い換えれば「駄作愛」である。
SNSなどを見ていて、ぼくが「この人はまちがいなく映画のコアファンだな・・」と感じる人というのは例外なく、高尚な作品も楽しむ一方で駄作を偏愛している人たちだ(ところで、映画はたくさんのライトファンが支えて成り立つものなので、コアファンがエラいと言うつもりはまったくありません)。
映画の駄作というのは、世間の空気を気にしながら打ち切られたテレビみたいな感じではなくて、わき目もふらずにがんばった挙句に生まれてしまう力駄作(りきださく)が多い。
力駄作(りきださく)とは?
さて、昨年の暮れくらいから、東映、角川、松竹といった各映画会社がYouTubeで「2週間限定無料公開」というのをやるようになった。
角川シネマコレクションでは『犬神家の一族』を皮切りに『リング』、『それから』ときて、現在は大映製作の『忍びの者』(1962)を配信している。松竹シネマPLUSシアターは2月15日まで渥美清、萩原健一の『八つ墓村』である。
東映シアターオンラインでは志緒美悦子の『女必殺五段拳』あたりからはじまり、本日までは『恐竜・怪鳥の伝説』(1977)という珍作をやっている。
この『恐竜・怪鳥の伝説』がすばらしい。見る気はなかったのだが、昨晩、ためしに出だしの5分を見て、
と直感して最後まで見た。力駄作の魅力をたたえた作品だと思えるので、ちょっと紹介したい。そう思ってスクリーンキャプチャも取っておいた。
『恐竜・怪鳥の伝説』
さて、主演は渡瀬恒彦。日本を代表する名優だと思っているんだけど、晩年はサスペンスドラマでタクシー運転手をやっていたし、角川の名作『セーラー服と機関銃』に出演する4年前にはこんな珍作に主演しているので、幅の広い人だ。
本作品は、簡単に言うと当時のネッシーブームのパクリである。
青木ヶ原樹海の地下に恐竜の卵が眠っており、富士の噴火が近づくにつれて地面が温まって卵が孵化し、恐竜がよみがえって西湖であばれまくる、というストーリーだ。
そこにたまたま居合わせた商社マンの渡瀬恒彦が、「恐竜を一目見れるなら死んでもイイ!」と暴走する。以下、スクリーンキャプチャを使って物語をざっと紹介したい。はじまりは富士の樹海だ。
恐竜は去ったが溶岩流は迫っているので、これからが本格的な国難のはじまりだとおもわれるにもかかわらず、愛が勝ったところで「終」のマークが出て映画は終わる。
このラストのパンチ力にグラッとしつつ「見てよかったな~」と思わされる瞬間だった。フェリーニの『8 1/2』も人類史に残る傑作だけど、『恐竜・怪鳥の伝説』も同じくらい捨てがたい。
大きな予算で、多くの人が関わり、がんばった挙句に生まれるエネルギッシュな失敗作。この振れ幅が映画の魅力であり、こういうのに弱いのが映画好きってものだろう。いやあ、映画ってホントにいいものですね~。
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