なんだか本物じゃない
「本物」が本気を出すときと、本気を出さないとき
サッカーワールドカップなどで、「強豪」と呼ばれるチームがあるでしょう。
あまり詳しくないんだけど、ブラジル、アルゼンチン、フランス、イングランド、ドイツ、イタリア、スペインなどがそうじゃないかな。かつて、そういう強豪チームと日本代表チームが親善試合で対戦して、たまに日本が勝ったりすることがあった。
今は日本自体が強豪扱いされ始めたので、このたとえはちょっとズレているかもしれないけど、かつて日本がザコ扱いされていた頃にも、
日本が強豪国に勝ってしまうことはあった。
ところが、公式戦になると歯が立たない。強豪国は、親善試合と公式戦では本気度がちがうからだ。たとえば、アルゼンチンが「本物の」強豪国であることはまちがいないけど、かつて日本にやって来て親善試合にのぞんだときには
ように思われる。選手は本気を出していたつもりかもしれないが、日本を相手にするときとブラジルを相手にする時では、必死度が同じにはならない。
ブラジル相手のときには、グイっと気合が入るというか、ギアが上がってしまうのだろうが、日本を相手にするときにはそれほどギアが上がらない。これは意識ではどうにもならない部分だ。
以上は、わかりやすい例として上げたのだが、「本物」と呼ばれる連中のパフォーマンスにも2種類あるということを言いたかった。
と
の2種類がある。
ビートたけしさんの例
有名な話だけど、カンニング竹山さんがかつてビートたけしさに悩み事を相談したことがあるそうだ。テレビにどういうスタンスで向き合えばいいかという悩み。
たけしさんの答えは、切り取って誤解されたくないのでくわしくは以下のサイトを見てもらいたいけど、要するに「テレビは仕事でやって、舞台の芸は芸人としてちゃんとやれ」といったのだそうだ。
このセリフだけが切り取られて、たけしさんが「テレビで手を抜け」と言っているように受け取られることが多いみたいだけど、そうではないだろう。
テレビにはテレビの表現のルールがあるので、舞台みたいにギアをあげて突っ走ってはいけない。テレビのルールに合わせてゆるゆる走れと言っているのだろう。
いずれにせよ、テレビに出ているときのたけしさんは、親善試合をやっているアルゼンチン代表みたいな感じで、本物がゆるゆる走っている。
一方で、映画を撮っている時のたけしさんは、公式戦にでたアルゼンチン代表みたいなものであり、一気にギアをあげて
に突入しているはずだ。
なにが問題なのか?
それで、何を言いたいのかというと、テレビに出ているたけしさんだけを見ていると、
がわからなくなるので、だんだん本気を出せない人間になってしまうんじゃないか、ということを言いたい。SNSではそういうことが起こっている気がする。
いきなり話が変わるけど、現在、世界最速のスポーツカーは「ブガッティ・シロン スーパースポーツ 300+」という車なのだそうだ。
「最高速度は300キロくらいかなあ・・」などととのんきな想像をしていたら、そんなのは昭和の話で、ブガッティは時速480キロをたたき出しているそうである。リニアモーターカーと並んで走れる。
このクルマもまちがいなく本物だろうし、アウトバーンに行けば480キロの本気のブガッティを見れるかもしれないが、日本にいる限り、このクルマが本気を出している姿をみることはできない。
ボクササイズする井上尚弥選手
しつこいようだけどもう一つだけ例を挙げる。
ボクシングとは体重別に戦うんだけど、井上尚弥選手は、彼の属していた階級では強い奴を全員倒してしまって、相手になる選手がいなくなった。
なので、体重を増やして上の階級で戦っている。こないだもフルトンという、上の階級で一番強い選手と戦って勝った。
ひと周り体格の大きなフルトンが相手なら、
という前評判もあったけど、ノックアウトで勝利した。
井上選手がなぜこういうチャレンジをしているのかというと、ブガッティが485キロに挑戦しているようなことだと思う。自分の強さの限界まで行こうとしているのだろう。
その井上尚弥選手が、こないだボクササイズをやっている動画を見た。ボクササイズというのは、ボクシングの動きを使ってダイエットするエクササイズで、女性に人気がある。
ボクササイズの動きをていねいに説明する井上選手は、誠実にやっていたけど、とはいえ、ブガッティが50キロで走っているようでもあった。
シロウトの時代
いまって、シロウトの時代でしょう?ぼくだってシロウトだけどこうしてnoteを書いている。しかも、本気を出しているというのでもなくて、
などと思いながら書いている。手は抜いてないが、最高速度を出しているわけでもない。
自分が本物だと言う気はさらさらないけど、いま頭の中で考えていることをそのまま書いたら仮に200キロ出せるとして、50キロしか出していないことが多い。
これはぼくだけの話ではなくて、あなたもそうだし、みんなそうだし、SNSでなにかを発信している人は、不特定多数の相手に対してできるだけわかりやすく、共感されるように書かなければならないから、自分の最高速度は出していない。
たとえば、プロの水道屋さんがYouTubeをやったとしても、「20年かけてようやく会得した技」などは見せてくれない。
そんな動画をアップしても、水道屋歴10年以上の人しか感動してくれないので、アクセス数を稼げない。代わりにかれらがYouTubeで見せてくれるのは
みたいなものばかりで、そもそもSNSとはそういうルールで動いている世界なのだから仕方がない。
あるいは、有名な実業家たちがいろんな動画をあげているけど、彼らの本業はビジネスであり、ビジネスパーソンが時速400キロの本気モードに突入するのはビジネスの舞台だ。YouTubeでは、時速50キロ程度で、ぬるいことを言っているにすぎない。
それはそれでいいけど、そういうぬるい世界にばかり目を向けてると、だんだん本気を出せない人になってしまいそうなので、お互いに気をつけようよな!というのが今日言いたいことです。
本気を出せない人
たけしさんの言葉をもう一度引用するなら
この「テレビ」のところをまるまる「SNS」に置き換えても成り立つということであり、SNSの空間には、本気の芸を出せる「舞台」は存在しない。本気の芸を出したいなら別の場所に舞台を探さなければならず、その努力を怠っていると
になりそうだ。ブガッティだって年中80キロで走っていると、いざ480キロ出そうとして踏み込んだらエンコするだろうし。
こういうことを思うようになったきっかけ
いま池上嘉彦著『詩学と文化記号論』を読んでいるんだけど、こういうことを考えるいいきっかけになった。
池上先生というと言語学における世界的な泰斗だが、岩波新書の『記号論への招待』みたいな、わかりやすい本も出している。
しかし、この『詩学と文化記号論』は彼の主著で、論文をそのまま集めて載せたものであり、本物の池上氏が本気を出している本だ。思考の精密さに身が引き締まる。
なんだか本物じゃない感じ
1行ごとに線を引きながら時間をかけて読んでいるんだけど、この本を数ページ読んでからネットをながめると、ぼくの書いたものを含めてほとんどのコンテンツが、
がしてくるようになった。ニセモノだと言っているのではなくて、なんか生ぬるい。
こないだほめちぎった『座頭市』シリーズもしかりで、池上先生の論考を読んだ後では、なんだかまるで映像表現の限界に挑戦していないヌルい作品に思える。まあ、そもそも、限界に挑戦するタイプの映画ではないんだけど・・・・。
気を取り直して、ロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』を見た。主人公はロバなのでセリフは
だけだが、映画の限界に挑戦しており、時速400キロは出ていてスカッとする。ただし、油断すればあっという間におきざりにされる。
こういうことはSNSの世界ではやれない。
べつに時速400キロを出しているのがエライとは思わなけど、こういうフルスロットルで限界に向かっていくようなテンションを心のどこかに宿していないとダメになりそうな気がしてきた。
僕自身、油断するとすぐにこのピリッとした感じが失われて、ぬるい世界が世界の全部のような錯覚が生じるので、池上先生の論文をちょこちょこ読んでは、480キロの風圧を思い出すようにしている。
別になんでもいいのだ。水道工事でも、ゲームでも、映画でも、アウトバーンを走るブガッティでもなんでもいい。「本物が本気を出している」姿に出逢えるものならばなんでもいいと思うのだが、ぼくみたいなシロウトが増殖した分だけ、本物が本気を出している姿に出会うチャンスは減っていると思える。