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プロになるのはいいことなのか

「マトリックス」(1999)という映画を、ちょこっとでも見たことのある人はきっと多いでありましょう。

「となりのトトロ」レベルでは普及しているかなあ?(当社比)と思っているので、そのつもりで話すけど、あの映画はズバリ

ヒッキー映画

だと思う。あの作品の世界では、人類のほぼ全員がマトリックスという世界に引きこもっている。なので、

とにかく外に出ろ!

というお話だった。ヒッキーよ外に出ろ!と。なんでもいいから、とにかくでろでろ~という作品だった。でも、なかには

いやだ、出たくない、ヒッキーのままでいたい

というヤツもいた。マトリックスの中にいればバーチャルなレストランで、バーチャルなステーキをたいらげて、バーチャルなワインを飲めて最高なのだ。

一方、外の世界に出たら、油臭い船のなかで、離乳食みたいなマズいメシを食らいつつ、AIの攻撃におびえて暮らすだけなので、いいことがない。だからずっと引きこもっていたいんだと。

でも、作品全体としては、外側に出ろ!という強いメッセージがあったわけで、今日のテーマはこれです。

1つの世界に埋没するのはあまりよくない

のではないかということ。外に出ようよということ。少なくともぼくはそう思っているんだけど、これを読んでいる人が共感するかどうかはわからない。

居心地のいいところでラクをたい。ずっとヒッキーでいたいと思っているかもしれない。

巣立ち

マトリックスの外側に出るのは、ラクをするために出るのではない。偽物の世界の外側に出るということは、ほんとうのリアルに触れたいということである。

その意味では、巣立ちといってもいい。

人間は最初、家庭という世界で育って、やがて学校へ行き始めるが、あれは家庭というマトリックスの外側に出て、学校社会のリアルに触れるということだ。

そのうち学校を卒業して社会に出るけど、これも同じで、学校のマトリックスの外側の実社会のリアルに触れるために出るんです。

実社会に慣れてきたら、次はフリーになったり、起業したりして、組織のマトリックスの外側にでたくなるかもしれないが、これも巣立ちである。

あるいは、日本社会そのもののマトリックスの外側に出て、外国のリアルに触れたくなるかもしれない。場合によっては、地球のマトリックスの外側に出て、月なり火星なりに行きたくなる人もいるだろう。

いずれにしろ、わざわざ苦労を買って出ているのは、外のリアルに触れたいからで、その思いは、映画「マトリックス」と変わらない。

さまざまなマトリックス

マトリックスは、家庭、学校、会社のほかにもたくさんある

政界とか経済界とか、芸能界とかスポーツ界とか医療業界とか、いろいろある。

日本は一つのマトリックスだが、その中でも、北海道と沖縄のマトリックスではだいぶちがうし、おなじ中学校でも1年と3年ではすこしちがう。同じ3年でもA組とB組では微妙にちがうマトリックスがあったりする。

そうやって、世の中は無数の世界というかマトリックスで出来上がっているように思える。

そして、ぼくはどのマトリックスに入り込んでも、しばらくするとその世界を縛っているローカルルールに違和感を覚えて、

この世界はせまいな

みたいな感じになる日がやってくる。もっと異質なリアルがありそうな気がして、外に出たくなる。

人は比較でしか物事を把握できないので、ほんとうのことをしりたくなったらいったん外側に出てみないと、どうにもならない。

以上をまとめると、あらゆる世界は、ぼくにとってはマトリックスに見えており、魅了されると同時にいつかその外側に出たくなる日がやってくると。

そして、だれでも一人でおギャーとこの世界に入ってきて、いずれは1人でこの世界を退場していくのだから、みんな同じ感覚を持っているはずではないかと。

「プロは一筋」という幻想

とはいえ、どんな道(マトリックス)であろうとも、一筋に打ち込んでやってもらわなければ世の中が成り立たないという考え方もあるだろう。

バスの運転手だろうと、水道屋さんだろうと、お好み焼き屋さんだろうと、その道一筋にやってもらわなければ、安心して仕事を任せられない。

こうしたマトリックスが組み合わさって、社会というマトリックスが成り立っている以上、それぞれのマトリックスを機能させるには、その道のプロが必要で、プロには、その業界一筋でがんばってもらわなければならない、と。

プロを演じているからプロ

でも、これは一種の幻想だという面もあるのではないだろうか。

人がなにをもってプロになるかというと、

技術と知識と経験

というのももちろん正解だけれども、一方で

プロを演じているからプロ

という面もあるような気がするんですよ。プロって、プロらしさを演じている部分があると思うんですよね。

お医者さんは、医療の技術や経験ももちろんだけど、医者らしさを演じなければならない。これはなんでもそうで、逆に言えば、

らしさ=一筋でやっている「っぽい雰囲気

を身につければプロっぽくふるまえるのではないだろうか。

「っぽい雰囲気」があればいいのではないだろうか

たとえばいまSNSで、なんかのプロとして売り出している人は、いかにもそのことばかり四六時中考えているフリをしているはずだ。

YouTubeに旅行動画をアップして稼いでいる人は、旅行ばかりしているように見せているし、ゲーム実況を上げている人は、ゲームばかりしているように装っている

けど、ほんとはそんなことはないはず。

たとえばぼくはわりと映画を見るんだけど、映画監督とか映画俳優が語っているコンテンツを視聴すると、かれらは、いかにも四六時中映画のことを考えて、情熱を注いでいる風な姿勢で語る。

でも、ほんとはそんなことないと思うんですよ。

映画人は熱い(ように見せている)

たとえば、YouTube動画に「クライテリオン・クローゼット」という10年以上続いているシリーズがある。

クライテリオンというのは名作映画のDVDやBlu-rayを専門に出している北米の高級ブランドです。

ここが販促のためにやっている企画が、この「クライテリオン・クローゼット」というもので、この会社が出している膨大なタイトルをコの字型にビシーッと並べた狭いスタジオがマンハッタンのどこかにあるらしい。

そのなかに俳優や監督が入って、自分の好きな作品を棚から抜き出してそれについて熱く語り、語った作品はトートバッグにいれて持ち帰っていいことになっている。まあギャラ代わりかな?制限時間は5分間

日本のクリエイターも何人も出ていて、たとえば、メタルギアシリーズが有名なゲームデザイナーの小島秀夫さんも出ていた。「ドライブ・マイ・カー」の濱口竜介監督も出ていた。役所広司さんも出ていた。

みんないろいろ語るんだけど、共通するのは四六時中映画のことを考えているっぽい雰囲気だ。たとえば役所さんの回を見ると、小林正樹監督の『切腹』を棚から取り出し、

主演の仲代達矢さんは私の先生で、この方がいなければ、ぼくは今ここにはいないと思います。

という。それからチャップリンの『街の灯』を取り出して

みなさんも好きですよね。何度、何度見てもすばらしい映画だと思います!

と、ちょっと熱くなっていた。

役所さんは全般的におだやかで大人な雰囲気だったけど、アメリカの俳優が登場すると、もっとハイテンションで、ハチャメチャで自分勝手な人が多い。

ラブコメにばかり出ている俳優がいきなりタルコフスキーの『ストーカー』を語りだしたり、高価なボックスセットを何本も持って帰る強欲な人がいたりして、見ていておもしろいのだが、いずれにせよ、アメリカの役者のハイテンションぶりは、一見ハチャメチャなようでも、映画に夢中になって取り組んでいる感じが伝わってくるので、

映画っていいな、もっと見たいな

という気分にさせられる。そういう気分にさせて販促するのが狙いなのだからそうなるのが当然だ。

でも、よくよく考えてみると、そのハイテンションぶりには

本当に映画が好きなので語りだすと止まらない

という面ももちろんあるだろうが、

プロなので意識してテンションを上げている

面もあるのでは?と言いたいわけです。

このシリーズを何十本も見ていると、映画人という人種は四六時中映画のことばかりを考えているみたいな印象を受けてしまって、思わずぼくも映画のマトリックスに埋没しそうになる・・・んだけど、いくらプロでも四六時中映画のことを考えているなんてことはないなはずだ。

子どもの進学のことで悩んでいたり、今日は新車の納入日だったり、やりかけのゲームが気になったりなど、いろいろあるはずなのだ。

四六時中は考えていない

ぼくだって、こうして映画のことを熱くかたっているようにみせつつも、決して四六時中映画のことを考えているわけではない。

ごくたまに考える程度である。

それでもこうしてあらたまって語りだすと、熱く語ってしまうのはそういうノリにすぎない。

映画にかぎらず、そういう一筋っぽい雰囲気を漂わせるのがプロで、そうやってぼくらをそのマトリックスの圏内に引き込む力を生み出しているのだと思える。

1つ1つは小さな世界

まあ、そういうわけなので、クライテリオンのクローゼットで語るプロの俳優さんたちは

映画の世界が、自分のすべてだ!

みたいな空気感を出してくるけど、ほんとはそうではないということは頭の隅に置いておきたいのである。熱い語りに魅せられつつも、やや距離をおいて

映画業界って小さなマトリックスだな

と思うようにしている。他のマトリックスに比べて小さくはないけど、さまざまなマトリックスの中の1つにすぎない。そう思って外から眺めるようにしている。

なぜなら、ぼくは映画の世界のおもしろさはもう十分に味わったし、これ以上埋没しても伸びしろは限られているから。

映画は、すばらしいし、これからも見るつもりだけど、一方で、すでに脱出するためのマトリックスになってしまった

一方、味わったことのないおもしろさをもつ異世界はまだまだたくさんあって、そういう場に首を突っ込めば、ゼロが1になる。それはまるで、新しい大陸が出現するような、おもしろさだ。

ずっとそこに居続けるプロに敬意を払いつつも、ぼく自身は、この先も別な世界に飛び込んでいくだろうし、どんな世界に飛び込んだとしても、その中心をかならず見届けるし、見るものを存分に見終えたら、安住はしない。引力を破ってふたたび外側に出てやるぞと、そういう気持で生きています。


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