なにごとにもやる気が起きません。どうしたらいいのでしょうか
なにかを非難するときに「それは宗教だ」と人は簡単に言うけれど、じゃあその人がいっさい宗教チックなモノににかかわっていないかというとそんなことはない。
「宗教チック」という言葉でぼくがさしているのは「お正月に神社に行く」とかそういうレベルのことではない。お正月に神社にいくのは宗教チックなのではなくて
である。そういう本格的なヤツのことを言っているわけではなくて、
みたいなものことを言いたい。自分の中から湧いてくる自然な考えを知らず知らずのうちに自己検閲してしまって、
は全部この「宗教チック」な空気圧である。
「王様は裸だ」と思ってはいけない
「裸の王様」という童話があるが、あれに出てくる大人たちは全員これだ。どう見ても目の前の王様は裸なのに、「そう感じてはいけない」と思い込んでいる。
そうかんじることを禁じる法律があるとか、そう思ったら警察に捕まると言うわけではない。知らず知らずに自己検閲してしまうあたりがじつに「宗教らしい」ところなのである。
この空気感はかならずしも麻原彰晃のようなカリスマが作り出すものだとはかぎらず、WBCで盛り上がっている時に「野球ハラスメント」という言葉が飛び交ったのも「野球を肯定するのが当たり前」「野球に興味がないと言ったら悪いことをしている気分になる」という妙な窒息感があったからだろう。
太平洋戦争時の「鬼畜米英」もおなじで、それまでアメリカ映画が好きだった人も、戦時中は
とムリヤリ思い込もうとしていた。
やる気がないのは悪いのか?
ぼくは長いことこういうのに逆らう生き方をしてきたので、この手の空気圧にかなり敏感だ。
自分のことは置いておくとしても、漫画家の蛭子能収さんが世間で人気なのは、この手の宗教チックな空気にとらわれずに言いたいことを言っているように見えるからだろう。
「蛭子能収のゆるゆる人生相談」はぼくも大好きなんだけど、たとえば
という質問に対して
と問い返してしまっている。質問者は「やる気が起きないのは悪いことだ」と頭から思い込んでいるからこの悩みがあるわけだだけど、そもそも、その考えが思い込みなら悩み自体がなくなってしまう。
ただし、今の日本で
などというと「そんなことだから経済が停滞しているんだ!」と責められかねないので、蛭子さんのように言えない圧力があって、こういうのが僕の考える「宗教チック」な空気圧である。
やる気バリバリの人もいれば、やる気のぜんぜんない人もいて、共存すればいいと思うのだが、
と自己検閲してしまっていると、息苦しいときに息苦しいと言えないのがデフォルトになり、だんだん息が詰まってくるけど、だれもそれを口に出せないし、そもそも意識に上ってこなくなって、病気になるまで気づかない。
空気圧を感じる方法
さて、こういうのを敏感に感じる方法もあるし、うまいこと抜け出す方法などもあるんだけど長くなってきたので1つだけ。ぼくは本や映画などは、
ということに決めている。こういうのを徹底していると「ほんとは読みたくないけど仕事柄、または義理で読まねばならない」などという本の表紙に手で触れただけで
がして、ひどいときにはおなかが痛くなったりもする。子どもの登校拒否みたいなものなのだが、こうやって子どものような状態というか、蛭子さんのような状態に身を置いていると、宗教チックな空気圧がかかってきたらすぐに気がつくようになる。