たまに「心を閉じたい」日がある
閉じこもりたい
このところ、ふと
と思うことがある。念のため言っておくけど「引きこもりたい」ではなくて、「閉じこもりたい」である。
「引きこもりたい時の心理&特徴」という記事によれば、引きこもりたい人は、人間関係に疲れているのだそうだが、ぼくは人間関係に疲れていないので関係ない。
そもそも今の生活自体が引きこもりに近いので、改めて引きこもりたいなどと思わないのだ。
「閉じこもり」とは
そこで、「閉じこもり」で検索すると、1,740,000 件ヒットする。豊岡市のウェブサイトには、こう書かれていた。
閉じこもりとは、「高齢者の行動半径が狭小化し、心身両面が弱っていくこと」を指す言葉なのだそうだ。知らないうちに陥ってしまう状態なので
と思う人はいないらしいのである。「閉じこもり」と「引きこもり」には、このように大きな差があるのだが、ぼくは勘違いしていた。
世間でも混同されている
自分を棚に上げて言うけど、世間のみな様方はこの違いを、ちゃんとわかっているのだろうか?「Yahoo!知恵袋」には
という質問があって、色んな人が「ゆっくりしろ」とか「旅に出ろ」とか「スーパー銭湯にいけ」とか「閉じこもるのもよいでしょう」などと回答しているが、ぼくに言わせれば
という身もふたもない回答になってしまうのだが、そんなことを言っても質問者は幸せにならないと思うので、投稿していない。
心を開かない文章
さて、ぼくは引きこもりたいわけではなく、閉じこもりに陥っているのでもないので、何と呼べばいいのかわからないのだが、あえていうなら
のかもしれない。このnoteは毎日書いているわけだが、たまに心を開きたくなくなる時がある。
そもそもブログの書き方には、心を開く書き方と、心を開かない書き方があると思うのだが、ぼくのスタイルは前者である。
心を開かない書き方というのは、客観的論評というやつだ。たとえばアマゾンのレビューなどでもたまに
みたいな終わり方をしているのがあるが、ああやって論文みたいに書けば、心を開く必要はない。ただし、この手の文章を読むたびに
と思ってしまうし、やれと言われても、はずかしくてあんなオッサンくさい真似はできないのだ。ぼくが書評を書くなら、
みたいな感じにどうしてもなる。碩学泰斗(せきがくたいと)ではないので、「自分はこう感じた」という視点を抜きにブログなど書く気にならない。
続けることに意味がある
しかし、たまには黙っていたいときもやってくる。今日がそうなのだが、でも、それをやらない理由というのがあって、これが今日書きたいことである。
今日休まなかったのは、続けることに意味があると思っているからで、なぜかというと
という考えが僕の中にあるからだ。これは実体験に基づいている。
うそくさい奴
もう3年ほど前のことなので、書いてもいいだろう。まだnoteを書き始めて間もない頃のこと、フォローしてくれた人の記事を読みに行ってみたら、すげーウソくせー感じだったのである。内容は、
みたいなものだったのだが、一読して、なんともウソくさい。
「あの手この手で集客しよう」という感じが見え見えだったのだが、一見するとエモい書き方なので、だまされる人はだまされるのだろう。かなりの評価を得ていた。
ただし、他人がいいと思うなら、ケチをつける筋合いはないので別にいい。
だが、そのうち、ネタが切れてきたらしく、「ぼくが書いたこと」が書かれているような気がする日もあった。だが、このあたりを気にし始めると、松本零士先生になりかねないので、それも別にいい。
でも消えていった
でも2か月足らずでそのnoteは消えてしまったのである。なので
ということを学ばせてもらった。
ただし、続かない人が全員インチキだと言っているのではないですよ。向き不向きもあるし、続けることが正義でもないし。とはいえ、立派なことを言ってるわりにはすぐに消えるヤツの中にかなりの確率で
ということは言っていいのではないか。
1回や2回ならきれいごとはいくらでもかける。だが。時間をかけなければ示せないこと、続けることでしか表現できないもの・・がこの世にはあると思うので、今日も書きました。