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好きなことが2つ以上あるとおもしろい

「急がば回れ」と「善は急げ」は、よく考えてみると正反対のことを言っている。「急がば回れ」が真実なら、

善も回れ

ということになるはずだし、逆に「善は急げ」が真実ならば、

急がば急げ

になるはずである。でも、「どっちがホントなんだ?」などと考えてもむなしいのである。状況次第で使い分ければいいことだ。

気持ちばかり焦って空回りしそうなときは、「急がば回れ」と自分に言い聞かせればいいし、やらないければいけないことを後回しにしそうなときは「善は急げ」と言い聞かせればいいわけで、絶対にこれ、というのはない。

「木を見て森を見ず」と「神は細部に宿る」

「木を見て森を見ず」とは、細かい所ばかり気にしていると全体がおろそかになるということあり、「神は細部に宿る」とは、細かいところをおろそかにすると全体がうまくいかない、ということであり、

どっちなんだよ!

といいたくなるところだが、これも状況に応じて使い分ければいいだけだ。

細かいところにばかり目が行ってしまう人は、ときどき

木を見て森を見ず

を思い出して、状況を引いて眺めたほうがいいし、なにごとも大雑把な人は、要所要所で

神は細部に宿る

ことを思い出して気を引き締めるのがいいだろう。なにごとも使い分けである。

人間関係も使い分け

使い分けが大事だというのは、人間関係にも当てはまる。

たとえば、東大生が集まれば、自分たちは勉強が得意だということをつい忘れる。

プロアスリートが集まって練習していると、自分のフィジカルが人並み外れていることを忘れがちになる。

そして、金持ちだけが集まっていると、自分が金持ちだということを忘れるのである。

かりに「東大出身」の「オリンピック代表」の「大富豪」がいたとしよう。その人が東大OBの集まりに出ると

自分はフィジカルが強いんだな

と思う場面があるだろうし、オリンピアンの集まりに出席すると

俺は金持ちなんだな

と実感するだろうし、金持ちの集まりに顔を出すと、

おれは勉強ができるんだな

と思うだろう。絶対的な自己認識というのはないので、周りを替えれば、自分の異なる面が見えてくる。

映画と陰謀論

ぼくは不思議なことも好きだが、映画や小説も好きであり、この2つを共有している人はあまりいない。

映画好きと語るときにはUFOや心霊の話は控えるし、不思議や陰謀論好きの集まりに顔を出すときには、映画や小説のことはしゃべらない。だれでもなにかしら、このような使い分けはあると思う。

そんな中で、後者の集まりに顔を出しているうちに気づいたのだが、ぼくは超自然現象や陰謀論に対して、映画や小説に接するように接しているような気がする。

いいかえれば、内容よりも文体に注意が向くということであり、話の展開よりも、語り手の心理で判断しているということでもある。

ぼくだけでなく、小説や映画が好きな人はみなそういうスタンスなのだが、文学好きだけで集まっているとついそのことを忘れる。でも、陰謀などを論じる人たちと一緒にいるとそういう自分に気づけるのでおもしろい。

かりに旅行と読書が好きな人がいたとしよう。その人が読書好きの集まりに顔を出すと、旅行の好きな自分のことが見えてくるし、旅行仲間と一緒にいると、読書好きな自分をより理解できる。

このように、好きなことは1つでもいいけど、2つ以上あったほうが、自分のことがよくわかって面白いのでおすすめだ。

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