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板挟みになるのはいつだって苦しい
なんといっていいのか、「あいだに挟まれた人」といえばいいのか、そういう人は、いつも苦しい立場に置かれる。
国と国のあいだとか、派閥と派閥のあいだとか、肯定派と否定派のあいだとか、男性と女性のあいだとか、加害者と被害者のあいだとか、なんでもいいのだが、板挟みになるとなかなか苦しいものだ。
『アバター』(2009)という3D映画があったけど、世界的大ヒットしたので見た人も多いことだろう。
あれなんかまさに「板挟みの話」である。主人公は地球の軍人なんだけど、パンドラ星人のアバター(人造生命体)に入って生きており、パンドラ星人の彼女がいたりするので、地球とパンドラ星のあいだに挟まれてじつに苦しい。
物語は、やがて地球とパンドラ星の全面戦争になってしまうが、主人公はなんとかそれを防ごうとして、双方を説得する。
しかし、地球人にパンドラ星人の思いを伝えようとすると
このうらぎりもの!
と言われてしまうし、パンドラ星人に地球人の考えを伝えようとしても
おまえは地球のまわしものか!
と言われてしまうのである。
両陣営とも「相手が悪い」そして「自分たちが正しい」と思い込んでいるわけで、主人公が双方の考えを相手側につたえようとすればするほど、双方から敵意を持たれてしまう。
『アバター』を見ていてぼくが感じたのは、
3Dがすごいな
ということと
板挟みになるはやっぱり苦しいな
という2つしかなかった。
ところで、さいきん、いろんなことで世論が分断している。
アメリカの不正選挙説だとか、ワクチンの功罪だとか、ウクライナ侵攻をめぐる西側とBRICs諸国との意見の対立など。
こういうときに、どちらか一方に肩入れして、相手側を攻撃するのは、
屁をこくよりかんたんなこと
である。一見すると立派な意見をのたまわっているように見えるが、実際は屁の大きさを誇っているのと変わりない。
ところで、ぼく自身も、超常現象をテーマに生きているのでたえず、あいだにはまさまれる。
あらゆる超常現象を一蹴してしまう頭のいい人々と、なんでもかんでも鵜呑みにしてありがたがる自己評価の低い人々のどちらにも属することができない。
前者からは「頭の弱いヤツ」あつかいされ、後者からは「頭の固いヤツ」あつかいされるが、まあ、そんなことはどうでもいい。
井上靖『おろしや国酔夢譚』という小説を読んだ。
名作だ。
18世紀のおわりに伊勢を出港した貨物船が漂流し、カムチャッカにたどりつく。
そこで10年にわたってロシアを流浪し、やがて日本に帰ってきた大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)という商人の人生が描かれている。
この光太夫が、ロシアと日本のあいだにはさまれた数奇な運命をたどるるわけなんだけど、読みおわってあらためて
板挟みはくるしいな
と思わされた。
異郷の地をさまよいながらひたすら帰国を願う光太夫は、異国の文物を詳細に記録することに情熱を注ぐ。すべては祖国のためだ。
そんな彼を、ユーラシアの大陸的な風土が有無を言わせず飲み込んでいくわけだが、その流れにあらがってようやく帰り着いた祖国は、矮小で形式ばった島国であり、かれを受け入れない。
大陸的風土と、島国の矮小さの対比が胸を打つ。
ところで、最近、井上靖の小説にハマっている。
いわゆる歴史作家というのは大味な作家が多くて、ぼくはあんまり得意ではない。井上氏も「歴史小説の大家」という触れ込みだけど、ダイナミックな物語性の中に、芥川賞的な感性の鋭さを併せ持つのがこの人の魅力だ。
芥川賞・直木賞とむやみに区別する必要はないが、歴史小説というとエンタメに傾き、詩情あふれる作品というとちんまりした私小説になってしまいがちである。
その点、井上氏の作風は「これまで私小説に独占されていた抒情と大衆文学に任されていた物語性を総合」(中村光夫)したような、どーんと深い湖のような感じがある。
ぼくは北方謙三も藤沢周平も好きなのだが、井上作品と比べると「貯め池」くらいの深度しかない。楽しいからいいんだけど。
『しろばんば』という自伝的小説から入ったのがよかったのだろう。歴史性を抜きにして、詩的な感性に親しめた。
次に『天平の甍』を読むか、『敦煌』を読むか、迷っているところです。