【連載第6回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】
※▼第Ⅲ章.奇蹟篇
第3節.ギルベルトの〈エロス〉/〈過去〉の罪と〈未来〉の罪/ひとつ目の〈不可能性〉
・第ⅰ項.ギルベルトはヴァイオレットの「あいしてる」を知っていたのか?
・第ⅱ項.観客は云う「あなたはヴァイオレットに逢ってはならない」
※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版/「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最低限の魔法のスペル/「感動した、泣いた」で終わらせないために/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』/あるいは隠れたる神と奇蹟の映画/検索ワード:批評と考察】の分割連載版となります。記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。
第3節.ギルベルトの〈エロス〉/〈過去〉の罪と〈未来〉の罪/ひとつ目の〈不可能性〉
それが不可能であるからこそ〈奇蹟〉なのだと論じてきた。
ヴァイオレットとギルベルトの「叶わぬ願い」――。
それに向かって本作では一歩一歩と前進していく。
幼き日のヴァイオレットを重ねただろうか。
ギルベルトがエカルテ島の子供に頼まれ代筆することになる届く宛のない手紙が皮肉にもヴァイオレットに彼の居場所を知らせることになる。
この何重もの反転はこれも〈奇蹟〉の予兆だったと云えるのか、ただの偶然か。
エカルテ島へとたどり着き、ギルベルトの生存が確定し、居場所がわかり、ホッジンズが会話を交わしたところで尽きる先の〈奇蹟〉の予兆――。
ここで本作は〈不可能性〉のアンチノミー(二律背反)の領域に足を踏み入れることになる。
正しく把握することも説明することも困難な、まして解決することが〈不可能〉に見える問題だ。
・第ⅰ項.ギルベルトはヴァイオレットの「あいしてる」を知っていたのか?
「第Ⅰ章.エロス篇第2節.ギルベルトのエロス第ⅱ項.」で、なぜギルベルトのエロスは背徳的なのかについて「決定的になるのは、ギルベルトはドールとなり成長したヴァイオレットがいまや自分を愛していることをわかっている」からだと記した。
いまからこれについてを考えてみたいのだが、まずこういった意見があるだろう。
「それはおかしい!ギルベルトはヴァイオレットの手紙の最後の一文「わたしは、少佐を愛しています」を読むことではじめてヴァイオレットの真意を知り、だからこそ駆け出したのではないのか?」
(※最後の一文の解読については虫圭氏の記事を参照)
もっともである。
とは云えない。そうではないのだ。
ギルベルトはヴァイオレットの手紙を読んでヴァイオレットの気持ちを知ったのではない。
もしそうであったならばこの物語は成立すらしないのだ。
知っていたからこそギルベルトとヴァイオレットの〈愛の成就〉は不可能なのであるし、また〈奇蹟〉という圧倒的な強度をもたらすのだ。(※このテーゼは本論の始めから終わりまで何度も一貫してでてくることになるだろう。)
もしあの手紙ではじめて知ったのなら、そのように理解されているのだったら、本作の強度は著しく下がる。まったく別物になってしまう。
そうであろう。もう一度考えてみてほしい。
どうしてギルベルトはヴァイオレットに逢えないのか?逢おうとしないのか?
きちんと説明できるだろうか?
〈愛の成就〉という〈奇蹟〉の〈痕跡〉とは〈不可能なこと〉であった。
しかし本節の〈説明不可能性〉とはこの点――どうしてギルベルトはヴァイオレットに逢えないのか?逢おうとしないのか?――ではない。
それはこれからなすように説明できる。
本当に奇蹟的なのは
「ギルベルトがヴァイオレットの愛を知っているにもかかわらず愛が成就したこと」
である。
これが説明不可能なのである。
まずは説明可能な問いから答えよう。
「もしギルベルトがヴァイオレットの愛を知らなかったならば彼女と逢わない説明がつかない」以外にもさらに他のギルベルトが彼女の愛を知っていたとする根拠はあるのか?
ある。
私たちはその根拠を実際に見て知っている。
思い出してほしい。次のシーンだ。
「第Ⅱ章.残酷篇第1節.第ⅲ項.ヴァイオレットとリュカは〈分身関係〉にある」で「ヴァイオレットが〈予示〉としてユリスにギルベルトを重ね合わせて、いまだ生存を知り得ぬギルベルトに向かって語りかけているという構図になるためである」とした。
さらにこれは「伝えたいことは出来る間に、伝えておく方が良いと思います」といってからヴァイオレットがあらかじめギルベルトに伝えたいことをユリスに話すシーンであると論じたのだった。
ヴァイオレットとユリスの会話はこう続いている。
ユリス「……そうかな……。」
ヴァイオレット「はい……。私は……全てを聞くことも……伝えることも出来ませんでしたが……。」
ユリス「……誰に……?」
ヴァイオレット「……私に……あいしてるをくれた方です……。」
ユリス「……そのひと……死んじゃったの?」
ヴァイオレット「……私は、どこかで生きていらっしゃると信じております。」
ユリス「……その人に、何を伝えたかったの?」
ヴァイオレット「……。あいしてるも……少しは分かると……。」
ユリス「……分かっただけ?」
ヴァイオレット「……。」
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.75)
この後ヴァイオレットの沈黙が続く。
ト書きには「考え続けるヴァイオレット」「一生懸命考える」とあり、ユリスの「微笑し、少し落ち着く」となってユリスがリュカと逢わない理由を話す。
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.76)
「第Ⅱ章.残酷篇第1節.第ⅶ項.ギルベルトとユリスは〈分身関係〉にある【②】ユリスの病室でヴァイオレットを捉えるギルベルトの視線」においてこのシーンで「この病室にはギルベルトが居る」と述べた。
そしてその説明を予告しておいた。下画像のシーンである。
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.73)
これが根拠である。
つまりギルベルトはユリスとして、自身の身代わりとして死ぬ少年をとおして、ヴァイオレットの「あいしてる」を知っているのだ。
※あるいは読者が知っていることは登場人物も知っているという文学的修辞法でも構わない。
こういった作品の内と外を行き来する映像とテクストの解釈空間が成立していることを察知できなければ本作を構造的に把握することはおぼつかないだろう。
ましてや〈奇蹟〉を見ることは決してかなわない。
ここからさらに一度おさらいしてから敷衍してみよう。
・第ⅱ項.観客は云う「あなたはヴァイオレットに逢ってはならない」
それではまずは何が〈奇蹟〉という不可能なことであるのか、それは確かなことかをおさらいしてから、それがどれほど不可能なことであるかを敷衍してみていこう。
【おさらい】
〈奇蹟〉はそれが〈不可能〉であるから〈奇蹟〉である。
〈奇蹟〉はそれがなぜ起きたのかをどれだけ根拠を並べ立てても、証拠を集めても論理的に説明することはできない。
よってわれわれに可能なのは〈奇蹟〉の〈痕跡〉であろうものを見逃さないことである。
〈奇蹟の痕跡〉とは〈不可能〉な事態である。
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の〈奇蹟〉の分水嶺となるのは「ギルベルトがヴァイオレットと逢うことは不可能」(これは〈不可能〉な事態ではなく説明可能なことである)であるということである。
もしヴァイオレットが自分を愛してることをギルベルトが知らなければ、逢わない必然性がなくむしろ不自然ですらある。(※知らずに逢わない理由があるとしてもそれは必然的ではない。逢わない必然性を帯びるのは知っている場合である。)
そして実際に逢おうとはしなかった。
【結論】
よってギルベルトはヴァイオレットがおのれを愛してることを知っていると考えるのが妥当である。
傍証としてヴァイオレットとユリスの会話をギルベルトはわれわれと一緒に聞いている(もちろん作品内のキャラクターが物理的に聞いているのではない。念の為)。
※ここまでで頻出する「〈奇蹟〉と〈奇蹟の痕跡〉の違いとは何ぞや?ややこしい」という方のためにもう一度整理しておこう。
〈奇蹟〉とは「ギルベルトがヴァイオレットの愛を知っているにもかかわらず愛が成就したこと」という〈不可能なこと〉――説明できないありえないことが――であるにもかかわらず実際に起ったことであり〈愛の成就〉と表記する。
〈奇蹟〉の〈痕跡〉とは端的に不可能なこと自体を指しそれが跳躍して可能になる前のことである。
〈不可能性〉や〈説明不可能性〉、この後では〈決定不能性〉、〈不確定性〉、〈ブラックボックス〉等とも表記される。
これも前に述べたが、〈痕跡〉に焦点を当てるのは〈奇蹟〉の起きた根拠はわからないとしか云えないため、それに迫るために何が不可能なことであるかを精緻に分析することにより〈奇蹟〉へ至る一筋の光明が差し込むことに〈賭ける〉ためである。(※この〈賭け〉もすぐさま重要なキーワードとなる。)
【敷衍】
先に「本当に奇蹟的なのはギルベルトがヴァイオレットの愛を知っているにもかかわらず愛が成就したことである。これが説明不可能性なのである。」と述べた。
前者の「ギルベルトがヴァイオレットの愛を知っている」は説明した。次にいよいよ不可能性という〈奇蹟〉の接線にまで迫っていこう。
〈愛の成就〉というこの不可能なことが可能となるためには準備として、いかにそれが不可能なことであるかから確認しなければならない。
まずはじめに不可能なこと。
ギルベルトがヴァイオレットと逢うことである。
そもそもギルベルトがヴァイオレットに逢えない理由はなにか?
もしギルベルトがヴァイオレットからの手紙ではじめて彼女からの愛を知ったのだとすれば、あたりまえだがそれ以前はヴァイオレットが何のために自分に逢いに来たのか、何を考えているのか、自分にたいしてどう思っているのかを(完全には?ほとんど?)わかっていなかったということになる。
しかしこれだと彼女と逢うための障害はほとんどないように思われる。(※だからこそここで否定する前提――ギルベルトはヴァイオレットの想いを知らなかった――からすれば「さっさと逢え!」という少なくない感想があるのだろう。)
「いや障害がないなんてことはない。ヴァイオレットが生きてドールとなっていることがわかっても逢いに行こうとはしなかったのだから逢いたくない理由があるのだろう。」
そうかも知れない。
いやそうだろうか?逆ではないか?(ヴァイオレットが自分を愛しているということを)知っているからこそ障害になるのであって知らないゆえの障害など何があるだろうか。
1つ。もう目の前に来ているのだ。常識的な感覚としてまだ遠くにいるのであれば、ヴァイオレットへの少なからぬ罪悪感からいろいろと心の整理をする時間が必要であったとみるのは通常の感覚だろう。
この場合ギルベルトが即会いに行こうとしなかったからといって彼女に絶対に会うつもりがなかったとは云えないだろう。
しかし遠方よりわざわざ逢いに来た目の前の相手に会わないというのは相当の理由があると考えるべきだろう。
2つ。まずヴァイオレットへの罪悪感のために後に彼女から距離を置くことにするにしても、離れ離れになって意識を取り戻した後、真っ先に彼女の生死を確認しようとするのが普通ではないのか?
むしろそれすらしないというのはこれはあまりにも異常ではないのか。
その異常性を説明できるだろうか?
そこでのその最初の徹底した拒絶こそが数年経ったエカルテ島における彼女への拒絶の等根源的理由だろう。
それともその描写がなかっただけであろうか?とてもそのようには思えないのだが……。
やはりこれは酷薄なことと感じるかもしれないが、ギルベルトはヴァイオレットは死んでいるものだと思おうとしていたと考えたほうが自然である。
そうであるからより彼女を受け入れることに抵抗感があったのだろう。
そして死なせてしまったという思いがますますおのれを罪のループにさいなませることになったのだろう。
そしてこれは矛盾しないのだが、同時に彼女は自分と関係なく生きていると思いたかったはずであり、なかばそう思っていたはずである。
しかし自分と関係なく生きているはずのヴァイオレットが逢いに来てしまったからその現実は否定されなければならなかったのである
※また後述する重要な論点として、ここでは彼は真の意味ではまだ戦争から生きて返って来てはいなかったのである。
またギルベルトはずっと前からヴァイオレットの生存は知っていた、あるいは作中のエカルテ島の描写においてはじめて知った、というのはどちらでも良い。
しかし逢いに来たヴァイオレットをあれほどまでに拒絶する理由をギルベルトが作中で述べた理由からは導き出せない。(※くりかえすがそれがわからないからギルベルトの逡巡にいらだち納得がいかないひとが出るのであろう。)
なぜなら扉越しに、ヴァイオレットの声と何を伝えたいかは、そのときにほぼすべて伝わっているからである。その前のホッジンズの訪問からだけでも十分だったろう。
これによりギルベルトは彼女が逢いに来た理由の確定的な答え合わせとなった。よっていままでは不確定であったとは云える。云えるだけで実際にはギルベルトはすでに充分知っていただろうが――。
考える時間は丸一日あった。その上でそれでも拒絶したのである。それほどまでに逢ってはいけない理由とはなにか?
罪悪感だけでは足りない。というよりもそれより遥かに大きな理由があるではないか。おわかりであろう。
彼女と愛し合うという禁忌である。
戦争に駆り出し腕を失わせたという罪悪感などではない。
それは〈過去〉の罪であり罪悪感である。
ギルベルトはこれから犯そうとする罪をおそれているのである。
〈未来〉の罪を――。
すでに犯した罪に対する罪悪感ではなくこれから犯すことになるより深い罪――。
ヴァイオレットから愛されること、彼女を愛することはひとりの幼い少女を殺人機械として使い、最後にはその人殺しさえできない身体の欠損をもたらしたことより人倫に悖る所業となる大罪であり、二度とくりかえしてはならないことである。つまり愛することだけで十分余りある罪ということだ。
このポイントを見過ごしてしまえばヴァイオレットを退けるギルベルトの過去の罪への悔恨をも結局はなかったものとしてみていると云わざるを得ない。
これから犯す罪を見逃し、彼の後悔、悔悟をなかったものとしてみる視点からは当然「さっさと逢え」という反応が出てくる。
ではそのようにギルベルトがヴァイオレットに逢った場合にどういう展開がありうるのか考えたことがあるだろうか?
そのギルベルトは過去の罪にすら囚われてはいないと云わざるを得ない。
これはダブルスタンダードだろう。その二枚舌の観客は過去の罪を認めているとうそぶきながら、逢うこと、愛し合うことも求める。いやあろうことかそんなウジウジしたやつはヴァイオレットにふさわしくないにまでいたるのだ。
もしギルベルトの倫理観と罪責感を本当に理解するのであればギルベルトはヴァイオレットと逢ってはいけない、もしくは逢えそうにないと考える以外にない。それしかないはずである。
ここではっきりとわかることだが、ギルベルトがヴァイオレットの「あいしてる」を知るのはやはり少なくとも手紙の最後の一文ではないことである。
ヴァイオレットと愛を交わすことが罪であり禁忌であるのは彼女の愛がわかっているからであろう。
当然のごとくギルベルトはヴァイオレットの生存を知ってからも彼女に逢おうとはしない。すぐそこまで来ても、その声を聞いても、何を伝えに来たのかを知っても一命をとりとめたそのときからみずからに科した戒律を守り通す。
いや、むしろそうして彼女の存在が近くなればなるほどより深くその思いを強くしたことだろう。
彼女の声を聞けば聞くほど「ああやっぱりか」ともっともおそれていたことが現実になってしまったとそれを過去に犯した罪への罰のように感じたことだろう。
彼にできることはこれから犯す罪となるヴァイオレットに背中を向け続けること、その声に打たれ抉られる劫罰に耐えることだけだ。
(以下画像を参照)
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)
さて、ギルベルトはヴァイオレットに逢うことは可能だろうか?
不可能である。
なぜならギルベルトが何があってもヴァイオレットに逢うつもりがないからである。
彼女の生死を知ろうとしないほどそれは徹底している。
そしてそれを私たち観客が共有することで決定的になる。
彼らは逢ってはならない。逢って良い理由がない。
もしギルベルトがヴァイオレットに逢おうとするのならばそれこそ彼は彼女にもっともふさわしくない人間である。
【結論】
ひとつ目の〈不可能性〉とはギルベルトは絶対にヴァイオレットとは逢ってはならないという論理的、倫理的な帰結である。
これは作品外の私たちが作中のギルベルトと共有してはじめて〈不可能性〉となる。
この〈不可能性〉の共有がなければ、登場人物はどんなでたらめな言動も、首尾一貫しない変節をくりかえすこともありになってしまう。
それでそのままなし崩し的に〈愛の成就〉がなされてもそんなものは〈奇蹟〉でもなんでもない。
これを安易に見過ごしてしまうとこの物語が崩壊する。
次節はふたつ目の〈不可能性〉を論じるための準備としよう。
(※おさらい。〈不可能性〉とは〈奇蹟〉の〈痕跡〉であり〈奇蹟〉へ至るために注視観察する本論の最重要項目、キーワードであった。)
(連載第7回【第Ⅲ章.奇蹟篇 第4節.狂気の愛とエロスの映画】に続く)
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