【連載第12回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】
※▼第Ⅱ章.残酷篇
第12節.ヴァイオレットの凍りついた「あいしてる」
※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版/「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最低限の魔法のスペル/「感動した、泣いた」で終わらせないために/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』/あるいは隠れたる神と奇蹟の映画/検索ワード:批評と考察】の分割連載版となります。
記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。
第12節.ヴァイオレットの凍りついた「あいしてる」
前節のひとつ目の問い、〈愛の成就〉とは、〈あい〉とは何かに答えきれていないだった。
まず前節を踏まえると狂気のなかの「あいしてる」がどれほどありえないような驚くべきことであろうともそれは何かを保証するものではまったくない。むしろそれは完全な無力そのものの謂ですらあるだろうということだ。
「あいしてる」を云うことと伝えることと〈愛の成就〉には位相を異にする無限の距離がある。
とりあえずそう仮定してみよう。
【入力ワード:狂気のなかの”ただ”の「あいしてる」】
ヴァイオレットはギルベルトに〈手紙〉で「あいしてる」を伝え、ギルベルトはヴァイオレットに一度失い〈回帰〉した「あいしてる」を云えた。
ではここで重要なことを断言しておこう。
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はそこで終わっているといっていい。
だからその後に彼女たちの〈愛の成就〉があったのか。それがどういうものなのかはわからない。
「そうではない」といえるとすればそれは〈愛の成就〉を何も知らないから、というよりもそれを知らないことを知らないからだろう。
もし本当に知っているのだとすればそれが描けないものであること、それは描かれないはずであることを知っているはずだ。
そして事実、それは描かれていないのだ。
「あいしてる」を伝えあったふたりがただそこにいるだけである。
(※あえて挙げるのも野暮であるが、ヴァイオレットとギルベルトの容姿が変わらないこと、年齢を重ねた姿として描かれないこと、その後舞台から姿を消すことから、それが観客に投げ出され委ねられている、あるいは同じことだがそこに断絶があることは明らかだ。)
だからここからは描かれていないこと、描くことが不可能なことを、ここにおいて、私たちがひとりひとりがその不可能性に、〈ブラックボックス〉という自分自身の実存と本質という引き裂かれた〈カオス〉として〈賭け〉てみることで描かなければならないのだ。
つまりこういうことだ。
ヴァイオレットのギルベルトへの「あいしてる」はあの原初の、ただそれだけの、なにひとつ期待を抱かない、狂気の「あいしてる」だったのか?
ギルベルトは本当に狂気のなかの「あいしてる」を取り戻したのか?いや、本当に一度目はあったのか?
この問いを自分の言葉で答えなければならないということだ。
本作が提示する「あいしてる」とは〈奇蹟〉の〈愛の成就〉を――描けないものを――描くという無責任を拒むこと、これである。(※これは最後にあらわれるので予告となるが無責任を拒まなければならないのは私たちであってヴァイオレットではない。「なぜヴァイオレット?」であるがこの意味は本論の結論として理解していただけるはずである。)
この映画に向かい合うこととは、描かれていないものを見ないこと、見たものを再検討すること、そしてそこに描かれていないことを廃した後、もう一度描かれていないことをそれを知っていながらもう一度見ることである。
そもそもなぜこんなことに言葉を費やすのか。フィクションは現実の模倣や延長や慰撫のためにだけあるわけではないからだ。
フィクションは現実においては無用の長物となる――その存在のあり方がきれいに収まる場所もあらかじめない――ものに出逢うことができる。
フィクションにおける恋愛やなんだに全身全霊をかけてうつつを抜かすこと――。
そこに現実にはいまだない何かや自明の現実の経験の受容の仕方をまったく廃することで可能になる――〈空虚〉がある。
その〈真空〉は気づかれない内に一瞬に埋め立てられてしまう。
それを見逃さないこと。
既存の経験、記憶、思念で糊塗してしまわないこと。
そのチャンスを逃さないことだ。
そこで、その先に出逢うものに思わず手を伸ばしてしまう、そんな領域へ誘われるということ。
それが〈エロス〉ということだ。
〈愛の成就〉とは何かを問うているのであった。
しかしそれはいま述べたように描かれてはいないのだ。
ヴァイオレットとギルベルトが――それぞれ混じり合うかどうかもわからない――そうなったとしてもそれがどういうことかもわからない――「あいしてる」を伝えあった――それが描かれてこの映画は終わる。
だからその先は私たちそれぞれに委ねられている。
なぜそんな当たり前のことをあらためて書き連ねなくてはならないのか?
エンドクレジットの直前のヴァイオレットの暗闇のなかの歩み。
そこにヴァイオレットからの?ヴァイオレットへの?「あいしてる」がある。
◆
※この◆から始まり今節の終わりまで続く「一人称の私」が語り手となる以降のテクストの性格については、やはり若干の前置きが必要だろう。
ヴァイオレットもギルベルトもほとんど登場しないいささかこれまでと毛色の違う文章がここに置かれた全体における意義とは、端的に〈狂気〉を本論に導入するためである。
この〈狂気〉が主題となるのは以下に記するように〈現実〉と〈フィクション〉――つまり本作『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が〈現実〉にたいしてどのような具体的作用をもたらしうるかを引き出すためである。
よって〈狂気(のなか)〉とは〈現実〉と〈フィクション〉の不分明な領域――界面――インターフェイスのことである。
〈狂気〉をもたらすもの、〈狂気〉に導くものはここでは「あいしてる」ということになる。
その「あいしてる」がどのようなものであるか――それを云うものと云われるもの――〈現実〉と〈フィクション〉を越境する「あいしてる」をヴァイオレットとギルベルトから「一人称の私」にスライドさせる試み――これを〈狂気〉をアクセントとしてなかば無理矢理に――事故のように――〈未知のもの〉として到来させてみよう。
だれかがだれかに、ここからあちらに、あちらからわたしに、わたしからあのひとに――「あいしてる」と云うことがどれほどありえないような――〈奇蹟〉であるか。
そんな特別な「あいしてる」にあらためて――ゼロから率直に何もかも忘れてしまったかのように――驚いてみよう。出逢ってみよう。
よしんばそれが〈狂気〉であったとしても。
それがこれから先の「みちしるべ」になるはずだ。
ここからは一人称で書くことしかできないはずだ。
一人称の私はヴァイオレットへの「あいしてる」を云うことに戸惑わざるを得ない。
ではヴァイオレットからの「あいしてる」をどのように受け取るべきか?
いかなる意味においてもヴァイオレットは一人称の私に「あいしてる」を云わない。とすれば最後にこの映画はまったくのノンセンスを提示して終わったのか?(※ちなみにナンセンスでない理由は特にない。)
ある意味ではそうである。だから、「もしそうではないとしたら?」が生まれる。
まったくのノンセンスでないとはどういうことか?
この問いが誘いである。
〈エロス〉である。
一人称の私にとっての。
そして狂気への誘いでもある。
先に原初の「あいしてる」を云うものは狂気のなかにあると述べた。
それにたいしてこれは「あいしてる」を云われたものの〈狂気〉だ。
前節でこう述べられていた。
だからギルベルトの二度目の「あいしてる」がヴァイオレットにあれほど逡巡を与え、崩れ落ちそうにさせたことに、私たちは説明を与えるべきではない。
それはなにを云っても的を外すからではない。したいのであればいくらでもすればいい。
ただできるのだとすればそのときそこには、云う宛のない「あいしてる」が、みっつの狂気が、あるはずだ。
一人称の私はここで舌の根も乾かぬうちに狂気の禁忌を破ることになるのだろう。みっつ目の〈狂気〉として。
〈狂気〉のなかの一人称の私はそうであるがゆえにその発言がすべて信用のおけないものにならざるを得ない。
そう〈カオス〉だ。
ヴァイオレットの心の〈わからなさ〉として論述してきた〈ブラックボックス〉、〈不確定性〉だ。
一人称の私は――ギルベルトの「あいしてる」を云うものの〈賭け〉ではなく――「あいしてる」を云われたものの〈賭け〉を試行することになるだろう。
狂気のなかで一人称の私は――だから云ってしまおう。
この狂気が他の狂気につながっているのかどうか、そんな計算はもはやどうでもいい。
原初の「あいしてる」はあらかじめ想定するものなどなにもないのであった。
「あいしてる」を云われたものもどうやらそうであるらしい。
そうヴァイオレットもギルベルトも「あいしてる」を云うものであると同時に云われたものでもある。
なんということだろう。ありきたりな、あまりに凡庸な、本当にノンセンスな、彼女たちにたいしては、だから確実に云ってしまうことができる。
そうだ
ヴァイオレットはギルベルトを「あいしてる」――。
ギルベルトはヴァイオレットを「あいしてる」――。
そしてなんと!(これがとてつもない驚きであるのは狂気のなかにあるからか煙に巻く詭弁なのか〈不確定〉なただの事実(この矛盾した言葉!)であるということだ。驚きの事実!)
ヴァイオレットはギルベルトに「あいされている」――。
ギルベルトはヴァイオレットに「あいされている」――。
どうしてそういうことがありうるのだろうか?
これでは狂気の掛け合わせではないか!
このありふれた狂気――。
驚くほうが驚きであるような狂気――。
だからこそ狂気のなかにいることになるのだろう。
これはトートロジーだろうか?
とにかくただそういうことであるらしい。
たしかにこれは何も保証しない。期待しないと云うより何も期待しようがない。ただそれだけだからだ。
ここで終わるのは当たり前だ。この先は端的にないからだ。存在しないからだ。どこかに存在するものがいまここにないのではない。無というかたちでも存在しない。本当に何ものもない。なんにもない。
あるのは狂気だけだ。
狂気のあるうちだけだ。
「あいしてる」を云われ(云われたのか?)云うものがいない一人称の私はどうなるのだろうか?
しかしだからこそわかったことがある〈愛の成就〉はない。
それは否定的なものではない。なぜならその〈なさ〉のあまりの豊穣さ、こういってしまっていい、絶対的な真善美の横溢にあずかった興奮とよろこびと恍惚があるからだ。
その背後には〈なにもない〉。
ただなにもないだけがありうるということ。
そんなことがあってよいということ。
あるのだということ。
これが〈愛の成就〉とは何かの答えだ。「あいしてる」の意味だ。
わかってしまえばそう述べ続けていたことに気づく。
〈愛の成就〉という〈奇蹟〉は〈説明不可能〉だと。
つまりこの絶対的〈なさ〉で説明尽くされてしまう。
原初の”ただ”の「あいしてる」は何もあらかじめ期待しないというのはまさにそのままだ。
ここに新たに「あいしてる」を云われたものも同じように(本当に同じであるか、そして必ずそうなるわけではまったくないが)狂気のなかでその純然たる〈なにもなさ〉を行使できるのだ。その可能性が開かれうるのだ。
〈なにもなさ〉に多くを語らせること語ることは危険だ。それは言語化すること、抽象化すること、概念化することの拒否そのものだからだ。
〈なにもなさ〉は何も云ってくれないのだ。
無謀にも危険を承知でこの〈愛の成就〉と「あいしてる」の狂気という〈奇蹟〉の一瞬の実現である〈なにもなさ〉に魅了された一人称の私は――その触発された〈エロス〉において語ろう。
私たちは、いや、一人称の私は〈愛の成就〉という何かがあると思っていた。それをそれ以上の何かで表現できるような何かがあると。
それがこの現実と地続きなこの現実を構成している予断であることがわかった。すべては空論であり現実が夢物語の上に成り立っていることがわかった。
これがフィクションにだけ通用するような脆弱な取るに足らない思い過ごしであり身体感覚や生活実感を離れたただの愚にもつかない観念であるとどこかから断じられても――それは正しい。
それがその現実的な、日常的な評価なのだ。
現実で生きていく以上はそうであらざるを得ない。
〈なにもなさ〉の充溢を垣間見てわかることがあるとしたら、現実とはそんなただの〈なにもなさ〉を薄皮一枚隔てた側で延々と自動人形のようにただ持続することを自己目的として日々あり続けているのだ。
この先もいつまで続けるか続いていくのか――どこで終わるべきかどう終わるべきか――それを無限遠点までなんとなく放り出していることすら見ようとせずにただ「あいしてる」にあまりに多くの期待をかけてきたのだ。
考えないことで盲目になり、明後日の方向を考えることで誤魔化し続ける。
自分の人生には、愛には、自分の愛するひとには価値があるのだと。
〈なんにもない〉でたまるかと。そんなのはひねたニヒリズムだと。
しかしニヒリズムについてはほとんどのひとが勘違いしている。ニヒリズムとはすべてのものの価値を否定することではない。ニヒリズムとは否定すべき価値があると信じていることだ。価値を信じ汲々とすることがニヒリズムなのである。価値を称揚せずにはいられないという病こそニヒリズムなのである。だから現実でニヒリズム以外はほとんどありえない。
あるいはそんなの当たり前だと悟っていうかもしれない。
「あいしてる」なんて本当は大層に着飾っているだけのハリボテであることを覆い隠す虚妄のゲームでしょうと、それは言わないお約束といつでも投げ出す準備を整え、安全弁が頭にちらつくようではもう楽しめないよと、それだけのこととシニカルに構えることが常態化しているのが現実ではないか。
〈なにもなさ〉はシニシズムもニヒリズムともいかなる意味でも無縁だ。
現実の愛にそれ自体の価値を求めてやまないのはおのれの価値をでっち上げていること――血道を上げていることを誤魔化さざるを得ないからだ。「あいしての」の価値を前もって切り下げておくシニシズムも多寡と方向の差でしかなく同根だ。そしてそれを現実において逃れることはほぼ不可能だろう。
狂気とはその〈外〉にでることだ。
そこで云えるのは、なにか意味のあること――価値のあること、正しいこと、何かと比べること、後からそれを評価できること――以外のものが〈なにもなさ〉であるということ。
それがありうるのだということはそれだけでもう何もいらないということであるということだ。
これ以上のものはもう何もないということだ。
そうでないものすべては何かを欲して貧窮であるということであり、この〈なにもなさ〉だけがそれ以上のものはないということなのだ。
一人称の私は――そんな現実から何かの価値を捏造することしかできないこの現実の〈外〉にある――〈なにもなさ〉をこの映画の〈愛の成就〉という〈奇蹟〉においてただ気づかされる。
いかなる計算的思考や比較考量を免れている〈なにもなさ〉という狂気のなかの「あいしてる」は無価値だ。
何の価値もない。
だからその「あいしてる」は狂気だ。
そしてだからその狂気のなかで「あいしてる」は生まれる。
「あいしてる」を云うことはその出自の狂気のなかへと云われたものを引き入れる。
だから「あいしてる」を云われたものは狂気のなかにいる。
狂気のなかで「あいしてる」を云うものと云われたものは出逢う。
そこで出逢うものとはお互いにとって〈未知なもの〉なのだ。
〈なにもなさ〉の「あいしてる」とはこれまでのすべての経験と既知の情報を殺し死に至らしめ〈未知のもの〉に出逢う瞬間のことだ。
フィクションから現実に越境してきた「あいしてる」の狂気のなかでその〈なにもなさ〉に与ることは――現実の「あいしてる」が〈ないもなさ〉の充溢であるかもしれないことに――おそらく再び今度はギルベルトと同じように――二度目のおそろしさとともに向かい合うことを可能とさせるのだろう。
それがほとんどありえないことであろうと。
しかし現実は残酷だ。
現実の裂け目だけを見ることに倦み疲れることになるのだろう。
二度目どころかこれはあの〈なにもなさ〉の「あいしてる」だろうか?
と、日々の現実の生活のなかの愛を点検し続けることになることに辟易することになる。
それはこういうことだ。
始原にあった原初の「あいしてる」は現実の「あいしてる」を殺し尽くす。それは「あいしてる」が原初のものではなかったということを無限背進させる。
その原初の「あいしてる」の寿命はおそろしく短い。無垢であるがゆえに無力だ。
現実の「あいしてる」ではない〈なにもなさ〉の「あいしてる」を現実で認識すればその瞬間にそれは現実の「あいしてる」となり、それはそうでないとなり、そうでないものはまたそうでないとなる。
これがどこまでも続き終わらない。結局現実において〈なにもなさ〉の「あいしてる」は捕まえられない。
ここでもまた〈不確定性〉が顔を出す。
〈奇蹟〉を可能にしたのはヴァイオレットの〈ブラックボックス〉という〈不確定性〉とその〈謎〉――〈ミステリー〉に魅了されたギルベルトの〈賭け〉であった。(以下の画像を参照)
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)
なぜ〈不確定性〉か?
〈未知のもの〉に出逢うことがわかればそれは自明だろう。
常に〈不確定〉であるから〈未知〉でありうる。
〈不確定性〉に開かれなければ〈未知のもの〉にはなりえない。
〈未知のもの〉はそれが現れてしまえばすぐさま既知となってしまう。
だから既知を殺して現れた〈未知〉は常にすぐ死んでしまうか絶えず既知を殺すことでしか存在し得ない。
〈なにもなさ〉の横溢はだからこそそれ以上はもう〈なにもない〉のだ。
〈なにもなさ〉とは絶えざる生成と消滅だ。
それに現実的価値がないのは当然のことだろう。
そしてそれは感知することも意味を与えることもできないという絶対的な〈不可能性〉であるのだ。
しかしこの儚くも激烈な破壊作用そのものの〈なにもなさ〉は〈奇蹟〉の〈痕跡〉の〈不可能性〉のような〈痕跡〉を残すことができる。
それがこの『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というフィクションが現実にもたらすもの――フィクションから現実に持ち帰るものだ。
それはひとつの経験からはじまる。
現実において何の意味もない〈なにもなさ〉の「あいしてる」――その徹底した無力を現実において思考したという経験――その唯一性だ。
言葉にすること概念化することで失われる〈なにもなさ〉――。
しかしその思考の経験という〈痕跡〉は残る。
その〈痕跡〉を証し立てるのが『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という映画なのだ。
一人称の私はこういっていた。
いかなる意味においてもヴァイオレットは一人称の私に「あいしてる」を云わない。とすれば最後にこの映画はまったくのノンセンスを提示して終わったのか?(※ちなみにナンセンスでない理由は特にない。)
ある意味ではそうである。だから、「もしそうではないとしたら?」が生まれる。
まったくのノンセンスでないとはどういうことか?
この問いが誘いである。
〈エロス〉である。
一人称の私にとっての。
この不思議なフィクションからの誘い――〈エロス〉をかきたてる「あいしてる」は狂気への誘いだ。
〈もしかしたら〉と誘引させること。
これが思考の経験への入り口だ。
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』から――ヴァイオレットから〈もしかしたら〉の「あいしてる」を云われた一人称の私はどうなってしまうのだろう?
狂気のなかで出逢う〈未知のもの〉とは何だろう?
一人称の私はたしかにこの問いに誘われた瞬間に――こんな思考をはじめてしまったこのときに――狂気という一撃を受け、殺害されたのだろう。
死の断絶という契機が既知の存在と思考の形態をほころばせ破壊する。〈未知のもの〉に出逢わせる。
しかしフィクションからの「あいしてる」――ヴァイオレットの「あいしてる」がもたらす法外な経験とは――あの〈なにもなさ〉の絶えざる殺害と新しいもの――〈未知のもの〉の入れ替わりの無限の反復運動を凍りつかせて永遠にとどめて思考に刻むことだ。
さながら死からの〈復活〉を一回限りの出来事として歴史に残すように――。
〈なにもなさの〉という〈奇蹟〉のさらなる〈奇蹟〉――。
そう一人称の私にとって『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のヴァイオレットの「あいしてる」は――現実の永遠ではないがゆえに永遠に自己点検をくりかえさざるを得ない――「あいしてる」を永遠に〈私〉にとどめる経験なのだ。
それが現実でも代替可能なフィクションのひとつの機能であるとするか――ただフィクションに、この作品にのみ開かれた現実ではありえない思考の特異な領域の発見――まったくの〈未知のもの〉であるとするかは、おのおのが各自で〈賭け〉るものであり、あらかじめ答えがあるものではない。
ここで現実とフィクションの「あいしてる」の差異や優劣を付け加えるのはよそう。
本論の〈奇蹟〉はフィクションと私たち(一人称の私)のインタラクション(相互作用)によって起こすものだったのだから。
一つだけいっておくとすればおそらく現実とはこの永遠に〈私〉にとどまる「あいしてる」に気づく場であるということだろう。
気づいたのならもう何も得るものはないはずだ。
何もそれ以上欲しないというならば――現実の「あいしてる」は〈なにもなさ〉なのだとそういえるのならば――それ以上もう何を問うというのか?
以上が本作『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というフィクションの〈愛の成就〉という〈奇蹟〉と一人称の私を蝶番に現実との越境を試みた――いささかまさに一線を越えでた思考の軌跡だ。
さあ、一人称の私から私たちへと――〈未知のもの〉に出逢う狂気のなかから――永遠に凍りついた「あいしてる」の経験を持ち帰って振り返ろう。
現実の「あいしてる」に対するフィクションの「あいしてる」を経験した私たちは――そこにヴァイオレットとギルベルトの〈愛の成就〉を――その〈なにもなさ〉の横溢を目にすることができるはずだ。
これが先にこう述べたことだ。
ヴァイオレットはギルベルトに〈手紙〉で「あいしてる」を伝え、ギルベルトはヴァイオレットに一度失い〈回帰〉した「あいしてる」を云えた。
ではここで重要なことを断言しておこう。
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はそこで終わっているといっていい。
だからその後に彼女たちの〈愛の成就〉があったのか。それがどういうものなのかはわからない。
「そうではない」といえるとすればそれは〈愛の成就〉を何も知らないから、というよりもそれを知らないことを知らないからだろう。
もし本当に知っているのだとすればそれが描けないものであること、それは描かれないはずであることを知っているはずだ。
そして事実、それは描かれていないのだ。
「あいしてる」を伝えあったふたりがただそこにいるだけである。
【出力ワード:「あいしてる」の〈なにもなさ〉】
(連載第13回【第Ⅲ章.奇蹟篇 第13節.神と交わる女たち/ヴァイオレット/から/の「あいしてる」】に続く)
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