【連載第11回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】
※▼第Ⅲ章.奇蹟篇
承前 第9節.ヴァイオレットもギルベルトも知らないこと、私たちしか知らないこと
第10節.もうひとつの、ユリスの〈死〉の意味
第11節.狂気の「あいしてる」/「あいしてる」の狂気
※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版/「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最低限の魔法のスペル/「感動した、泣いた」で終わらせないために/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』/あるいは隠れたる神と奇蹟の映画/検索ワード:批評と考察】の分割連載版となります。
記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。
【③】
最後にギルベルトの〈抱擁〉について補足しておこう。
これはヴァイオレットの最初の〈回想〉と先に見たギルベルトの〈回想〉でヴァイオレットの〈手紙〉の文面がはじまるところ、そして最後にふたりが現実での〈抱擁〉のあとにおそらくヴァイオレットの〈回想〉として、計3回繰り返される。(以下の画像を参照)
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)
3回のほぼ同じカットがその意味を変えているというのは当然ではあるがこれもどう解釈をするか様々だろう。
ヴァイオレットが最初の出逢いの〈抱擁〉を最後にそのまま思い出すというのであれば――それはそのときは「あいしてる」を知らなかったのであるから――知らないときも実はそれは「あいしていた」のだという理解を得たといえる。
あるいは排他的でなく両立するものであるが、逆に少しわかるようになった「あいしてる」がけっしてあらかじめ「わかる」ようなものではなかったということ――そのことが出逢いに回帰することによって表現されているのかもしれない。
またヴァイオレットがギルベルトの背に腕を回して抱きしめないのも〈過去〉の〈反復〉(思い出してほしい。長くなっているが本節の入力ワードは最後の〈予示と反復〉としての〈過去の追憶〉である。)であろう。
さらに云えばこれはヴァイオレットの本来の臆病さの表れかもしれない。
そして本当にヴァイオレットが求めていたものが、出逢ったときのあの刹那にだけありえた関係性とまだ名前が与えられる前の初発に萌え出たよろこびであったということだろう。
それは本人が最後まで知らないままであるかもしれないたぐいのものである。
なにも知らず怯えていた幼い自分を受け入れてくれ抱きしめてくれた優しい男性という甘いファンタスム――夢想――。
それを私たちはあらかじめ想像したことがあっただろうか?
あるいはシンプルに最後の出逢いの抱擁の〈回想〉で締めくくることで〈新生〉を端的に示しているともいえるだろう。
いかなる予断も廃することが必要なことであるとここまでいくたびか述べてきた。
彼女のドールとしての仕事が最後に私たちに実らせたものとは「ひとの心がわかるようになるということは、ひとの心がわからないということがわかる」ということである。
それが私たちにはうかがいしれないヴァイオレットの〈私秘性〉であり〈手紙〉の本質であった。
最後の彼女の過去の追想のギルベルトとの出逢いは――そうした安易な私たちの共感を阻む彼女だけの特異な欲望が垣間見られたということであり――どれだけ私たちが異論を唱えようとその私たちからの〈解放〉である。
彼女にとって、この〈過去〉の郷愁こそがなによりも特別だったのであり――この瞬間から自ら海に飛び込み〈洗礼〉を施した彼女の止まっていた時間が再び動き出すのである(もちろんそうであり得るということであるが)。
「ずっとこうしたかった」から最後の再会の〈抱擁〉のカットをヴァイオレットのものではなく「ギルベルトが想像するヴァイオレット」が想い描いたものであるともいえる。
またより入り組んだものであるが逆に「ヴァイオレットが想像したギルベルトが想起しているもの」としてヴァイオレットが自分と重ねたとも考えられる。
相手のなかの自分、自分のなかの相手、自分のなかの相手のなかの自分と相手のなかの自分のなかの相手――このいたちごっこの恋人たちの戯れもまたいかめしくいうと〈不確定性〉であり、ここでそのなかの主体は融解して輪郭を失い、観察者――私たち――は彼女たちを見失ってしまう――。
つまりもはやここまでくると何重にも入れ子構造になり決定できない。
単一の〈ブラックボックス〉ではなく複合的な〈ブラックボックス〉である。
そしてここから〈奇蹟〉の〈不可能性〉を追い越す試みがはじまる。
ヴァイオレットの内心と〈手紙の私秘性〉にさらされたギルベルトのおそれとおののきのなかで身を開く決断が――〈賭け〉が――背徳のエロスの〈愛の成就〉の〈不可能性〉に亀裂を入れることになるかもしれない。
よってもしそうであったのだとすれば、私たち観客が追えないどこかで――歪んだ合わせ鏡に映る無限の鏡像――たちがどこかで――彼女たちの〈わかりあえなさ〉が消失する瞬間もあるかもしれない。
そう考えることではじめてヴァイオレットがギルベルトを理解しようとしていたこと、理解していたことが語れる〈可能性〉もまた開かれるかもしれないのである。
であるとしてもそれがいかなる価値と意味を持つものなのか――ヴァイオレットとギルベルトの私たちからの〈解放〉の後では――背徳もイノセンスも私たちのパースペクティブから消えてしまった以上、いまのままではもはや私たちに何もはわからず、何もいえないはずである――。
【出力ワード:〈回帰〉するギルベルトの「あいしてる」と無限の解釈可能性】
第10節.もうひとつの、ユリスの〈死〉の意味
【入力ワード:様々な〈不確定性〉】
ヴァイオレットの〈ブラックボックス〉(〈私秘性〉、〈手紙〉)という〈不確定性〉がギルベルトに〈謎〉をかけ、〈賭け〉というもうひとつの〈不確定性〉を導く決断をもたらしたのであった。
〈ふたりの不確定性〉が〈奇蹟〉の〈説明不可能性〉を照らす鍵であった。
〈ふたりの不確定性〉の結果としての〈奇蹟〉に随伴するものを補足しておこう。
ヴァイオレットが私たちから離れていったようにギルベルトもまた彼女のもとに必死に駆けることで私たちから遠のく。
そう読まねばならない。(以下画像を参照)
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)
ヴァイオレットとギルベルトは〈夜〉に向かって駆け寄るのだ。
この出来事をこれまで〈愛の成就〉という名で呼んできた。
しかしそれはあくまでも仮の名であるしその実相を私たちは知らない。したり顔でわかった気になってはならない。
仮にそこで何かに感動し涙が流れたのだとしてもその心の震えはスクリーン上の出来事とはどこまでも答え合わせなどできない。だからこそ意味を持ちうるとしたら――なにもわからない――そういうことだったはずだ。
ヴァイオレットが何を考え知っているか、心のかたちも動きもわからない。
ギルベルトがいかなる決断をしたのかも本当は観客はわからない。
だから月明かりの下の彼女たちは、本当は〈堕罪〉したのかもしれないのだ。
ギルベルトが幼いヴァイオレットにひとの命を奪わせ、その姿に身を焦がせた情欲――。
ヴァイオレットのギルベルトへのイノセントな慕情もまた血に染まったものであること――。
「ずっとこうしたかった」という彼らの〈愛の成就〉は人目をはばかられる行為であることなのかもしれないのだ。
しかしそれと同時に、〈不確定性〉のなかで、そうでないかもしれないものなのかもしれない。
あるいはそうであると同時にそうでないという両者が入り混じって見分けがたい〈可能性〉も開かれたのだった。
ヴァイオレットが〈自己洗礼〉として海に飛び込み、ギルベルトが〈不確定性〉に〈賭け〉て駆ける。
それが本当の意味での戦争からの生還――〈幽霊〉であったことからの〈復活〉――生まれ変わり、再始動、生き直し――〈新生〉であること。
もしそうであったなら、ここでユリスは犠牲としての役割ではなく本当の役目を果たす(前に見たのはユリスの死の犠牲としての役割の無化あった)。
彼が今際の際でヴァイオレットとギルベルトを慮った「……生きてたんだ……。よかった。」が――これもヴァイオレットやギルベルトと同じく――他者への決して同一化できない隔たりがあるからこそ手を差し伸べることのできるいたわりの言葉と想いとなる。
〈予示と反復〉の構造の機能不全と〈脱魔術化〉。
〈分身関係〉の魔法が解かれることでユリスの死の意味が犠牲の羊から〈新生〉する。
彼は犠牲となったのではなく――ギルベルトの〈分身〉でも〈予示〉でもなく――ヴァイオレットではなく――本当に逢いたかったリュカに声を届け――〈未知〉の存在のギルベルトの生を祝福したのだ(もちろんユリスはそのために生きたのでも死んだのでもない。ただ最後にふたりを慮ったという端的な事実である)。
この本作におけるユリスの〈死〉の意味の変化は――決してユリスとその他の〈予示と反復〉の構造と〈分身関係〉が――そしてヴァイオレットとギルベルトの〈エロス〉の分析と〈幽霊性〉が――はじめから無意味であったということではない。
〈幽霊化〉によるユリスの死の〈脱犠牲化〉は先の思考空間の構築が無用であることを意味しない。むしろそれがなかったならばそもそも〈存在するという事態〉そのものが存在し得なかったものだ(つまりこの映画とまではいわないが本論の解釈における本作の存在そのものが存在する地平を失うということである)。
ヴァイオレットもギルベルトもユリスも「一度その経路をたどること」によって、〈犠牲〉でも〈堕罪〉でもないその他の存在の〈可能性〉が「もとよりあった」ことになる。
思考と感情と意識の時間は一方向にだけ進むわけではない。
〈復活〉するとき〈新生〉するときとは、それはあるひとつ別の時間で生きた経験から脱するときである。
その別の時間の〈可能性〉を開示するのが〈私秘性〉や〈賭け〉や〈手紙〉の持つ〈不確定性〉である。
逆にその〈可能性〉があけっぴろげにならなければ決して〈不可能性〉から逃れることはできない。
〈奇蹟〉は起きない。
【出力ワード:別の時間の別の〈生と存在〉の〈可能性〉】
第11節.狂気の「あいしてる」/「あいしてる」の狂気
本稿も終わりに近づいてきた。
本節では2つの問いを提示し、ふたつ目をまず答え、次節で本稿のまとめともいうべき問いに迫ろう。
【入力ワード:ギルベルトが〈賭け〉たもの】
ひとつ目の疑問い、〈謎〉は具体的で根本的なものだ。
ここまで〈愛の成就〉という〈不可能〉な〈奇蹟〉がどのようにして〈可能〉となるか、その条件を探ってきた。
それは絶対的なものではなく「別様であるかもしれない」という〈両義性〉、〈不確定性〉、〈カオス性〉においてあることにより開けてくるものであった。
しかしそもそも〈愛の成就〉とは何か?
ギルベルトの「あいしてる」とヴァイオレットの「あいしてる」のその〈あい〉とは別のものなのか?同じなのか?どちらかであるとしてそれらがどうなることが願われているのか?どう叶えられることが望ましいのか?望ましい〈愛〉とそうでないものとは何なのか?そんなものがあるのか?
そして「あいしてる」がわかることなどありうるのか?
ひとが「あいしてる」とひとに伝えるとき、それはそもそもどういうことだろう?
「あいしてる」はただ衝動的に、本能的に口にする言葉ではないはずだ。
このフレーズはとても短いがうっかり口をつくことはむしろ厳格に禁止されている類のものだ。そういう慎みを私たちは持っている。
私たちは「あいしてる」とは何かという問いのなかで、まだ未規定であるにもかかわらず、この言葉の厳密な使用のルールを薄っすらと気づいているのである。
それでもさまざまな「あいしてる」が、もしかしたらグレードのようなものがあるようにも思われる。
たとえば、なにか別の感情や思惑が自覚にいたることがないがゆえの代理としての短慮からの「あいしてる」、逆にその言葉の効果を熟知したつもりになり計算されたうえで発せられる「あいしてる」、あるいはその中間にあるよく考えられたものから勢いをつけるための「あいしてる」――。
その他いずれでもないも含めて「あいしてる」がそれにこめられた意図や外的理由をともなってあるだろう。
ここに挙げた例に共通していえることがあるとすれば「あいしてる」は他の言葉と違いがあり「何か他のものを伝える言葉」であるということだ。
そして筆者がここで主張することはこれらの「あいしてる」とギルベルトとヴァイオレットの「あいしてる」は根本的に別のものであるということだ。
「あいしてる」とは何か?を大仰な上滑りをする観念的問いとしてではなく、これまでたどってきた言葉たちにまかせてただ誘われてみよう。
そうすればこうなるだろう。
「あいしてる」がわかるとは自分が「あいしてる」という言葉を伝えたいということに尽きる。
そう、ヴィオレットは”ただ”ギルベルトに「あいしてる」と云いたかったのだ。
それ以上でも以下でもない。ただこれだけ。ひたすらシンプルだ。
その言葉で何かをあらかじめ期待するわけではない。その手前であることなのだ。
ヴァイオレットのイノセントなエロスもこの”ただ”「あいしてる」と云いたい――というとば口があって成熟されていったものだったのだ。
そこから生まれ落ちるものが何であるのかはわからない。
それもまた〈ブラックボックス〉なのであり〈カオス〉なのだ。
だから「あいしてる」は、こわい。おそろしい。
それは拒絶の〈可能性〉があるからではない。
それを口にするときそんな考えはどこにもない。
ないことが「あいしてる」ということだからだ。
何かを想定した「あいしてる」はもはやまったく別のものなのだ。
「あいしてる」がおそろしいのはそれを云う者でもそれを伝えられた者でもない。
その埒外にいるものにとってなのだ。
「あいしてる」は狂気だ。
狂気のなかにいるものはそれを知らない。
しかしその外にいるものはその狂気を思考してしまう。
自分ではない何者かになってしまうというおそれ――根源的恐怖。
それに怯え誤魔化すことが何かを期待する「あいしてる」なのだ。
あらかじめ比較考量しておくことで端的な「あいしてる」を封殺しておく。
それに慣らせておくことで〈カオス〉としての「あいしてる」に遭遇することを禁じておくのだ。
それこそがギルベルトのヴァイオレットの拒絶であったのではないか。
ギルベルトのヴァイオレットへの最初の「あいしてる」は狂気の〈カオス〉の「あいしてる」だった。
それはみずからが死を覚悟したとき、相手もが死に瀕するときにはじめて口を衝くかのように漏れ出たものだった。
だから「あいしてる」の二度目はありえないのだ。たとえ同じ文言だったとしても繰り返されることはありえない。
ギルベルトがヴァイオレットを拒絶するしかなかったのはこの「あいしてる」を繰り返さざるを得ないが、それはもはや自分を裏切るものになることを知っていたからだ。
最初の「あいしてる」を経験したギルベルトはだからそれを、おそれた。
永遠にそれを喪失してしまった。
ふたつ目の疑問はここからもたらされる。
ギルベルトの〈賭け〉という〈不確定性〉が〈愛の成就〉という〈不可能〉なもの――〈奇蹟〉への〈可能性〉を開いたと論じた。
ではギルベルトは具体的には何を〈賭け〉る決断をしたのか?
あの原初の、始原の、水端の「あいしてる」を、云えないことを、云うことだ。
ヴァイオレットに。
ありえないはずのもう一度の「あいしてる」を。
〈過去〉から、〈手紙〉から、時を経た彼女から〈回帰〉してきたあの言葉。(※その詳しい帰趨は第9節で述べた。)
〈幽霊〉の概念が犠牲としてユリスをギルベルトの生命の代替としない〈可能性〉を開いた。
(※この〈分身〉として供犠が行われた世界と新たに開かれた別の世界の両方を知っているのは彼らを見ている私たちだけだ。それは新たな世界が到来してもなくなることなくどこまでも確実に存在しつづける。この映画が存在しうるかぎり。それが私たちが観客であるということ。映画を観るということだ。)
ギルベルトの二度目の「あいしてる」が――ヴァイオレットから〈回帰〉した彼のあの原初の、ただそれを伝えたいというだけのそれだけの「あいしてる」なのだとすれば――彼の背徳的な〈エロス〉は二の句を継げなくなるだろう。絶句して刹那の後塵を拝することになるだろう。
その一瞬で十分だ。彼のエロスが背徳的でないのではない。背徳的であるにもかかわらずだ。
いかに年端の行かない子供を戦場で戦わせ、多くの命を奪わせ、あまつさえその子供の姿態に欲情することで育てたエロスであろうとも、いかに汚辱にまみれていようとも、二度と口にすることが不可能な「あいしてる」を云うことを押し止めるものはなにもない。
いかに空疎で、いかに言葉が〈過去〉の本物を裏切り、いかにそれがおそろしいことであろうとも――彼自身の「……ふさわしくない……。それでも……」という最後のためらいの残滓を引きずりながらも――ギルベルトは、云えないことを云ったのだ。
これがギルベルトの決断であり〈賭け〉られたものだ。
彼は自分を裏切ることを賭金にしたのだ。
なぜそんなことを?そう問いたくなるかもしれない。
原初の「あいしてる」――ただ「あいしてる」と伝えたいだけの〈愛〉――を云う者は、狂気のなかだと述べた。
だから背徳と汚辱の告白だったとしても、ギルベルトはそれを云うことができた。
ただしありえない二度目の狂気ははじめのものとは違う。
おそろしさに竦みながら足を踏み入れたものだけが陥ることのできるものだ。
くりかえすが二度目の狂気は、おそろしい。
もはや無垢な狂気の「あいしてる」を云う時間は過ぎ去ってしまった。
エロスを煮詰めたものを吐き出すという狂気の沙汰に自分自身が震えること――。
しかしそれはもしかしたらあの「あいしてる」を云ったあのときの狂気につながっているかもしれない〈狂気〉――そうであるのかもしれないのだ。
だからギルベルトの二度目の「あいしてる」がヴァイオレットにあれほど逡巡を与え、崩れ落ちそうにさせたことに、私たちは説明を与えるべきではない。
それはなにを云っても的を外すからではない。したいのであればいくらでもすればいい。
ただできるのだとすればそのときそこには、云う宛のない「あいしてる」が、みっつの狂気が、あるはずだ。
【出力ワード:ギルベルトに〈回帰〉してきたただの「あいしてる」】
それでは次節で持ち越しとなった本稿の〈奇蹟〉である「〈愛の成就〉とは何であるのか?」にいよいよ答えよう。
(連載第12回【第Ⅲ章.奇蹟篇 第12節.ヴァイオレットの凍りついた「あいしてる」】に続く)
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