【連載第5回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】
※▼第Ⅲ章.奇蹟篇
まえがき
〈奇蹟の映画/映画の奇蹟〉
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
第1節.『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のいくつかの欠点?
第2節.ギルベルトの生存の意味とは何か?死に損なった男のエロス
・第ⅰ項.ギルベルトは生きていたほうが良かったのか?作品〈外〉からのアプローチ
・第ⅱ項.ギルベルトは生きていたほうが良かったのか?作品〈内〉からのアプローチ
※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版/「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最低限の魔法のスペル/「感動した、泣いた」で終わらせないために/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』/あるいは隠れたる神と奇蹟の映画/検索ワード:批評と考察】の分割連載版となります。
記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。
▼第Ⅲ章.奇蹟篇
まえがき
〈奇蹟の映画/映画の奇蹟〉
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は〈奇蹟の映画〉である。
〈奇蹟〉に分析と説明の手は届かないが、これまでに思考した材料を頼りにできるだけそれに迫れることを祈り、記す。
あらためて、何が〈奇蹟〉であるか?
具体的にはヴァイオレットとギルベルトの〈愛が成就すること〉、その一点である。
この愛とは何かについての詳細も後に語ることにあるだろう。
この映画を観ることで、われわれはすでに〈奇蹟〉を目撃してしまっている。
だからそれが〈奇蹟〉であったことがもうわからない。
この〈奇蹟〉は劇的でありながら同時にひっそりと生じた。
あたかもそれが必然であったかのように。
それが起こることがあり得なかった世界を思い描くことができなくなるかのように。
できないのはこの〈奇蹟〉が起きなかったと〈いま〉思い描くということではない。
それができないのは〈奇蹟〉が起こり得なかったという〈いま〉がもはやどこにも存在しないからだ。
そのときの〈いま〉はどこにもないのだ。
その〈いま〉とは〈奇蹟〉の〈根拠〉のことだ。
そして〈奇蹟〉に〈根拠〉はない。
云い直したほうがいい。
〈奇蹟〉の〈根拠〉がわからない。
なぜ、ヴァイオレットとギルベルトの〈愛の成就〉という〈奇蹟〉があり得たのかがわからない。
もし私たちがあの〈奇蹟〉に心を打たれたのだとすれば、それが〈奇蹟〉によるものだったのだとすれば、それは〈奇蹟〉であったことの〈痕跡〉を触知したからだろう。
だから〈奇蹟〉の〈根拠〉がわからなくても、〈奇蹟〉の〈痕跡〉を寄せ集めることはできる。
〈奇蹟〉の〈痕跡〉は〈奇蹟〉の後に残るだけでなく事後的に〈奇蹟〉の前にも存在していたことになるだろう。
なぜ起こったのは〈奇蹟〉だとわかるのか?
それが〈ありえないこと〉だったからだ。
「ヴァイオレットとギルベルトの〈愛の成就〉はありえないことだった」
本章ではこの〈愛の成就〉=〈不可能性〉=〈奇蹟〉という観点から論じていこう。
そうでないのなら、
ありえないことでないなら、
〈奇蹟〉でないのなら、
では『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は何だというのか?
第1節.『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のいくつかの欠点?
あらためて、本作を〈奇蹟の映画〉としてみるために、くれぐれも気をつけないといけないことがある。
それは、ギルベルトが生存している点、そしてヴァイオレットとギルベルトの両者が互いのその愛の対象となること、この2点を本作にとっての瑕疵、欠点、短所であるとみなすことである。
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の否定的な感想、評価としてよく耳にするのは、
・「ギルベルトが生きていないほうが良かった」
・「時間的にそれを織り込むことは不可能であるとしても、ヴァイオレットがギルベルトの死を乗り越えていく物語のほうが、制作の背景を勘案すれば、優れた作品になった」
・「ヴァイオレットはギルベルトの生死に関わらず、彼以外との未来を生きるべきだった」
というものである。
これらの意見はドラマツルギーとしてはよくいって良識的、悪く云えばありきたりなものである。
この作品がなぜこういった展開とならなかったかはこれまでにも言及した。
それをいまここで一言でいうならば「奇蹟が起きたから」である。
「奇蹟が起きるため」「奇蹟を起こすため」ではない。
それではまるであらかじめ〈奇蹟〉を待ち望んでいるか〈奇蹟〉がなにかわかっているかになる。
どちらにしても〈奇蹟〉を念頭に置いてしまっている。
そうではないのだ。
それが起きたからこそ遡及的にこれまでがその準備であったかのように見えるのである。
いや見えるのではなくそうなるのである。
しかし重要なことは、その〈奇蹟〉の〈痕跡〉を触知するにはこれらの作劇的困難を正しく認識していなければならない。
これは断言しておく。
もしこのような否定的視点からだけで見るならば本作は、ただ退屈で平凡な悪い意味でのメロドラマに堕することを免れないだろう。
だが同時にそう見ないならば〈奇蹟の映画〉であることがわからなくなってしまうだろう。
いま云えることは、この映画の〈奇蹟〉に気づくにはギルベルトは生きていなければならなかったし、ふたりは結ばれなければならなかったということである。
それが〈不可能〉であるがゆえに。
〈不可能な愛〉であると認識していなければ〈奇跡〉は起きない。
つまり〈奇蹟〉とはそれを目撃する観客とのインタラクションによって起こりえるということだ。それを忘れないでほしい。
もうひとつ。
より多く仄聞するのはいわゆる「ギルベルトの弱さ問題」といったものだ。
つまり「ギルベルトが情けない」「ギルベルトは利己的、自己陶酔している」ゆえにヴァイオレットにふさわしくないというなんとも感情的な反応があるようだ。
これらの見解は、本作を極めて表層的というよりはほぼ見ていないに等しい反応でしかない。
これが当のヴァイオレットがそんなことをまったく思いも感じもしていないだろうということ踏まえたうえで――つまりヴァイオレットをとおして彼をみるのではなく彼女を自分で上書きして――のものであるとすればギルベルトの背徳的なエロスにたいしてこれまた良識的な感覚を示しているとはいえるかもしれない。
ギルベルトの逡巡の重みを正しく捉えることがいかに重要となるかは後述していくことで明らかになるだろう。
第2節.ギルベルトの生存の意味とは何か?死に損なった男のエロス
第1節.で挙げた本作の作劇的「ありえなさ」である「ギルベルトが生きてヴァイオレットとの愛を成就させる」という物語こそが〈奇蹟〉の〈痕跡〉であった。
そして観客がそのように見なすという相互作用によって〈奇蹟〉が見えるのであった。
では次にその「ありえなさ」がなぜ〈奇蹟〉の〈痕跡〉だと云えるのかを追ってみよう。
まず最初に作品外的アプローチから。
(※〈奇蹟の痕跡〉とは〈奇蹟〉を目の当たりにするためのヒントのことである。)
・第ⅰ項.ギルベルトは生きていたほうが良かったのか?作品〈外〉からのアプローチ
ギルベルトは生きていることがありえない。
なぜか?
なぜなら生きているのは作劇的に安易でありセオリーから外れていると思われるから。
さらにギルベルトの死をヴァイオレットが受け入れる喪の作業はテレビアニメ版ですでに描いているはずであるから。
これで生きていてはそのエピソードが台無しになってしまう。
このように考えられる。
しかし逆にこうも云えよう。
ギルベルトは生きていないことがありえない。つまり死んでいるはずがない。
なぜか?
なぜならこちらもすでに済ませているギルベルトの喪の作業をもう一度くりかえし描くのは作劇的にありえないから。
つまり劇場版をやる上で、ギルベルトの死の受け入れはもうできないはずである。
またヴァイオレットが亡きギルベルト以外の相手と築く未来の話もありえない。
なぜなら後述する彼女の狂信的なエロスをこそ本作がまずは描かなければならないものであるからだ。
新しくはじまるギルベルト以外との恋愛劇に彼女の烈しいエロスはそぐわないだろう。
こうなってしまっては〈奇跡〉が起きない。
(※〈奇蹟〉は起こすものではないが、しかし一度それが起こってしまったのであるからには事後の視点から可能であった〈奇蹟〉ではない展開を追う必要は今回はないだろう。)
最後に、そういった原作の改変は端的に、ない。(※身も蓋もない理由であるが。)
さらに生死の問題の副次的な展開として、ギルベルトが生きておりかつ彼と「再会するかしないか」を焦点とする話を描く、というのも〈奇蹟〉の未発であるからには上記の理由から排除される。
つまり、〈奇蹟〉であるのは――ギルベルトの生死を作品外からのアプローチから考えた場合、彼が生きていたからでもそうでなかったからでもなくその両者がどちらもありえない二律背反にもかかわらず――「ヴァイオレットとギルベルトの愛が成就した」ことにある。
・第ⅱ項.ギルベルトは生きていたほうが良かったのか?作品〈内〉からのアプローチ
次に作品内の物語の論理からまとめてみよう。
ギルベルトの生存がこの物語にもたらしたものとは何か?
それはエロスである。
過去と現在におけるヴァイオレットへのエロスが焦眉となる。
(※本論でのエロスの定義を見失いかけている方へ。エロスとは古代ギリシャにおけるプラトン的な「ある対象へ恋い焦がれる熱情」のことであった。)
ギルベルトのエロスは背徳的であった。
歪で倒錯した光源氏計画――。
殺人マシーンであることで際立つ少年兵ヴァイオレットの蠱惑的な美に滲む妖艶なかわいらしさ――。
その魅力に溺れた代償としての失った右眼と手――。
失わせた両腕――。
それが物語の求心力となるギルベルトの生存の意味である。
(これは「第Ⅰ章.エロス篇第2節.ギルベルトのエロス」で述べた。)
ギルベルトの生存が引き換えにした代償はそれだけではなかった。
それが「第Ⅱ章.残酷篇」で述べたユリスとの〈分身関係〉による彼の死であった。
ではギルベルトの生存は彼のエロスを、ひとりの少年を犠牲にしてにまで満たすための物語に帰結するということだろうか?
本作の結末は、〈奇蹟〉としての〈愛の成就〉とは、少なくともギルベルトにとってはそういうことだったのだろうか?
「違う」「そうではない」と一蹴してしまうのは容易い。
ではギルベルトの〈愛〉とは何なのか?
〈エロス〉とは?
ギルベルトの「あいしてる」とは何なのか?
そしてヴァイオレットの「あいしてる」は?
本稿では一貫して〈愛のエロス的側面〉を手放すことはない。
そうでなければ本作を〈奇蹟の映画〉などと呼称することはないだろう。
ギルベルトの「あいしてる」とヴァイオレットの「あいしてる」の相克のドラマとして本作を論じること。
「第Ⅰ章.エロス篇」と「第Ⅱ章.残酷篇」はその準備であった。
半死半生の愛、死の愛、そうした崩壊した瓦礫のなかにしか〈奇蹟〉はありえないだろう。
それは〈不可能なもの〉だからだ。
淫靡なギルベルトのエロスの行方を追うこと。
それが〈奇蹟〉の〈痕跡〉にたどり着くひとつの道程である。
背徳と死を引き連れたギルベルトの生――。
死に損なった生命――。
徹底的に否定的な存在として生きてしまったこと――。
彼をそう見なすこと――。
では彼を「あいしてる」ヴァイオレットにとってギルベルトはどのような存在としてあったのか。
ここで新たな疑問が胎動してくる。
そもそも私たち観客は彼と彼女のことをどれほど知っているのか?
ギルベルトはヴァイオレットの、ヴァイオレットはギルベルトの何を知っていて、どう理解し、どう思い、どうしようとしていたのか?
これらがこの「第Ⅲ章.奇蹟篇」の主題のひとつとなるだろう。
次節ではまずギルベルトがなぜヴァイオレットを拒絶したのかを詳細に確認してみよう。
(連載第6回【第Ⅲ章.奇蹟篇 第3節.ギルベルトの〈エロス〉/〈過去〉の罪と〈未来〉の罪/ひとつ目の〈不可能性〉】に続く)
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