【連載第2回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】
※▼第Ⅰ章.エロス篇
第2節.ギルベルトのエロス
・第ⅰ項.ギルベルトの貞潔・清貧・従順と背徳
・第ⅱ項.ギルベルトの淫靡な背徳的禁忌と侵犯へのおそれ
※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版/「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最低限の魔法のスペル/「感動した、泣いた」で終わらせないために/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』/あるいは隠れたる神と奇蹟の映画/検索ワード:批評と考察】の分割連載版となります。
記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。
第2節.ギルベルトのエロス
現在時のヴァイオレットは誘惑する攻めのエロスである。対してギルベルトはどうだろうか?
ギルベルトのエロスは現在だけでなく過去との対比が重要である。
・第ⅰ項.ギルベルトの貞潔・清貧・従順と背徳
「第1節.第ⅰ項.」のヴァイオレットの溢れんばかりの熱情に対してギルベルトが忍ばせている情念の火、熾火は対照的だ。
現在のギルベルトの内面の化身のようなエカルテ島。
緑の少ないむき出しの地面に岩肌。
表立ってではないが、本シリーズには作品背景として明確にキリスト教的モチーフが自然に溶け込んでいる。
劇場版においては(ヴァイオレットの自室、エンディングクレジット後の窓の木枠が十字架とし表現されているなど)、特にエカルテ島では、それがより濃密である。(以下画像を参照)
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.27)
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.32)
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.44)
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式HPより)
荒涼としたエカルテ島に隠棲するかのように暮らすギルベルトはさながら修道士のようだ。ぶどう畑などはあからさまな表徴だといえる。
修道士の三つの誓願は貞潔・清貧・従順だ。
ヴァイオレットを遠ざける貞潔。日々の暮らしの清貧。軍人として一度は背いた従順は自罰と償いの堅持である。
(※エカルテ島のモデルがギリシャのフォレガンドロス島であるとの指摘については虫圭氏の記事を参照。長めの記事のため目次から「▪️エカルテ島聖地特定及び考察」で飛んで欲しい。これも後に重要な要素となる。)
ギルベルトは島の老人の助言やホッジンズとヴァイオレットをあくまでもはねのける。
なぜそれほどまでに頑ななのか?
戦後のギルベルトの生は贖罪に捧げられている。それを脅かされたからである。それをおそれたからである。
なぜそれほどおそれるのか?
それはギルベルトのエロスが背徳的だからである。
ギルベルトのエロスはエカルテ島での暮らしのなかの贖罪と対立し、相克する。
だからこそ彼のエロスは背徳的なのである。
ストレートでイノセントなヴァイオレットのエロスと対照的なのはこの点である。
・第ⅱ項.ギルベルトの淫靡な背徳的禁忌と侵犯へのおそれ
ギルベルトはヴァイオレットを拒絶しなければならない理由となるおそれが2つある。
【①】ギルベルトは罪を償わなければならない。
その罪とはもちろんヴァイオレットを戦争の道具とした過去である。
その贖罪の失敗とはどうなることか?
ヴァイオレットを愛すことである。
【②】ギルベルトはこれからのさらなる罪を犯さないようおそれなければならない。
その罪とはヴァイオレットのエロスを「愛を受け入れること」ではない。
そうではなく能動的にヴァイオレットを愛することを許すこと、愛に溺れることだ。
それが新たな罪であり。絶対に峻拒しなければならないおこないである。
なぜか?
ギルベルトにとってそれが最高のよろこびだからである。
もしヴァイオレットを愛することが自身を傷つけ、背負わなければならない重荷、負債であったならギルベルトは迷わずその責務をになったであろう。
しかし、現実はまったくそうではなく、それはギルベルトにとって最大の幸福であるとわかっていたからこそ、もっともおそれなければならない最大の罪なのである。
ここを見逃すとギルベルトの言動にちぐはぐな評価を抱くことになる。
ギルベルトはヴァイオレットを絶対に拒絶しなければならない。
もしもギルベルトがよろこびに満ちて勇んでヴァイオレットと再会したならば、それこそ恥知らずな犬畜生にも劣る人間ということになるだろう。
この映画は、ギルベルトが生きていてはならない映画なのではなく、むしろ生きていなければならない、そして絶対にヴァイオレットを愛してはならない、愛することのできない映画なのである(※この重要な点の展開は「第Ⅲ章.奇蹟篇」で検討する)。
本来は〈花〉であるヴァイオレットを健やかに育てるための〈水〉をブクブクと煮えたぎらせるほどの強く燃え続けるどうしようもない彼女へのエロス――。
それは端的にあからさまに提示されていた。
(以下の画像を参照)
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.111)
この問いにどうこたえればよいだろうか?
過去において、どうしてギルベルトはヴァイオレットを自分のもとに置き、手放さず、結局のところ人殺しをさせたのか?
それはあどけない少女の美しさに、少女が無表情に血に塗れる姿に、空白の内面のままに熟れる様に魅了されたからに他ならない。
それが背徳的なものであることを知りながらそう望んだからだ。
これが過去での背徳的エロスだとすれば次は現在の堕罪のエロスだろう。
つまりさらに決定的になるのは、ギルベルトはドールとなり成長したヴァイオレットがいまや自分を愛していることをわかっていることである。
ヴァイオレットの生存がもたらした意味――。
それはよろびながらも、よろこびだからこそ、おそれなければならなかった。
ヴァイオレットに逢うことは即、破滅を意味するほど罪深いことだった。
だからこそギルベルトはヴァイオレットに逢わないのである。
それは保身だとか利己的だとかいうことではない。
この点も勘違いしてはならない。ギルベルトはヴァイオレットを不幸にすることを、失望を与えることをおそれたのではない。まったく違う。
重要な点であるのでくりかえそう。
ギルベルトは自身がどういう状態であったとしても、ヴァイオレットが自分を愛していることをわかっていた。
そうでなければ、ギルベルトはヴァイオレットに潔くすんなりと会っていたはずである。
それがヴァイオレットの自分に対する責めや決別、新たな旅立ち、巣立ちのための言葉を受ける再会であったならば――。
しかし過去でギルベルトが別れ際に残した「あいしてる」という言葉の意図のとおり(?、この点も「第Ⅲ章.奇蹟篇」で最重要項目となる)期待したようにその欲望は現実になり、渇望は最大限に高められた。
叶えられてはならなければならないほどより高まるエロス――。
そんな涜神的ともいえる淫靡な姦計だからこそ、ギルベルトの愛、エロスはどうしようもなく行き場を失うのである。
ギルベルトが修道士のように生きていることを思い出してほしい。
彼がヴァイオレットに逢わないのは、こうしたよこしまな欲望の自戒、自己抑制なのだ。
(※これまでではまだギルベルトへの不信は残るであろう。「結局すべては身から出た錆ではないか」、「過去の過ちがいまになってヴァイオレットを悲しませているではないか」と。この点も「第Ⅲ章.奇蹟篇」でより深めたい。)
禁忌の愛。迷路に迷い込んだエロス。破壊的なエロス。破滅的なエロス。背徳的なエロス――。
それがギルベルトのエロスである。ヴァイオレットへの愛である。
イノセントなヴァイオレットと対照的なギルベルトのエロス。
それこそがこの作品で描かれたものである(そしてもちろんこの先の展望こそが重要である。例によって「第Ⅲ章.奇蹟篇」を待たれよ)。
◆
ジョルジュ・バタイユのエロティシズムに関する古典ともいえる『エロティシズム』は
”エロティシズムとは、死に至るまで生を称えることである”
という名高い定義がある。これは冒頭であるが末尾ではこうである。
”まさにこの侵犯の運動においてこそ、唯一この運動においてだけ、存在の頂点はその全貌を明らかにするのである”
ジョルジュ・バタイユ、 酒井 健訳『エロティシズム』(ちくま学芸文庫、2004年、原著1957年、p.16、p.470)
ギルベルトの禁忌とその侵犯――。
それがこの論考の行く末で「あいしてる」という「存在の頂点」を明らかにしていくことになる。
【第2節.ギルベルトのエロスまとめ】
【ⅰ】ギルベルトのエロスはイノセントなヴァイオレットのエロスと対照的に背徳的である。
よってエカルテ島において修道士の如く貞潔・清貧・従順を守って抑え込まねばならない。
【ⅱ】ギルベルトは背徳的な禁忌のエロスへの侵犯と堕罪をヴァイオレットがもたらすことをおそれている。
(連載第3回【第Ⅱ章.残酷篇 第1節.なぜユリスは死ぬのか?〈分身するキャラクターたち〉】に続く)
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