【連載第8回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】
※▼第Ⅲ章.奇蹟篇
第6節.ヴァイオレットの〈解体〉/〈懐胎〉/エロス/手紙/ブラックボックス/ふたつ目の〈不可能性〉
・第ⅰ項.ヴァイオレットのわからなさ
・第ⅱ項.あなたの知らないヴァイオレット
第7節.彼岸にある映画
・第ⅰ項.私たちはヴァイオレットを見ていたのか?
・第ⅱ項.ふたりの亡霊、ヴァイオレットとギルベルト
・第ⅲ項.屍人のエロス
※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版/「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最低限の魔法のスペル/「感動した、泣いた」で終わらせないために/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』/あるいは隠れたる神と奇蹟の映画/検索ワード:批評と考察】の分割連載版となります。記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。
第6節.ヴァイオレットの〈解体〉/〈懐胎〉/エロス/手紙/ブラックボックス/ふたつ目の〈不可能性〉
「第Ⅱ章.残酷篇」の再検討の次は「第Ⅰ章.エロス篇」である。
こちらを〈逸脱〉に対応する〈解体〉にさらすことによって、ヴァイオレットの〈説明不可能性〉、〈ブラックボックス〉が〈懐胎〉し浮き彫りになってくるのである。
ではヴァイオレットの〈解体〉/〈懐胎〉に触れていこう。
・第ⅰ項.ヴァイオレットのわからなさ
結論をあらかじめ云っておこう。
ヴァイオレットのギルベルトにたいしてのエロスを再検討することで、それがイノセントで盲目的で〈両義的〉/〈不確定〉な狂信性があらわになる。
その〈不確定性〉が〈ブラックボックス〉である。
そして〈ブラックボックス〉の〈両義性〉とは
「ヴァイオレットはギルベルトを理解していない/しようとしていない」
かつ
「ヴァイオレットはギルベルトを理解している/しようとしている」
である。
どちらかがわからないのだ。
この問題の焦点を定めておこう。
これはどちらもイノセントなエロスなのである。
前者のイノセントなエロス――「ヴァイオレットはギルベルトを理解していない/しようとしていない」――についてもう一歩踏み込んでみれば、ヴァイオレットはギルベルトがいかなる人間であるかどうかなど何の意味を成さないほどのそれ以前の熱情を持っているということだ。
反対に徹底してギルベルトを熟知しようとする後者の欲望もまたひとつのかたちのイノセントなエロス――「ヴァイオレットはギルベルトを理解している/しようとしている」――であるが、これは前者とは質的に違うものであることは間違いない。
よってここではヴァイオレットには具体的にギルベルトの背徳的なエロスを知らない場合のエロス、知っている場合の2種類のヴァイオレットのエロスのかたちがある。
ギルベルトがおそれた〈未来の罪〉である彼を決定的に〈堕罪〉させるエロスはどちらか?
ヴァイオレットが知らないのであればそれはより多くギルベルトに責があるといえる。
しかしもし彼女が知っていたのだったとしたら?
この点はヴァイオレットの内心をひとつの〈謎〉と〈秘密〉として読み解きたくなる誘引である。
これはギルベルトがヴァイオレットの自身への愛を知っていると断じたこととまったく対照的である。
ヴァイオレットとギルベルトのエロスの差異、非対称性を追究していきたい。
もしヴァイオレットがギルベルトのエロスを熟知していながらそれを知らないかのように振る舞い彼を誘惑しているのだとすれば――。
あるいはギルベルトの背徳のエロスを知ったことが彼女にとっていかなる意味ももたない些事なのだとすれば――。
彼女は彼の共犯者となることを欲しているという可能性が生じる――。
これが前前節、前節で予告されてきたヴァイオレットの(エロスの)〈不可能性〉である。
それは彼女の内心の〈両義性〉と〈決定不能性〉としてある。
これではどうあっても〈愛の成就〉はない。
「理解していない、知らない」の場合はギルベルトの背徳的なエロスの〈不可能性〉を強化するので〈愛の成就〉はない。(※何も知らない彼女と愛し合えるだろうか?)
しかし「理解している、知っている」も今度はヴァイオレットはある意味ではギルベルト以上の背徳性を背負うことになりより〈不可能〉である。
袋小路である。
しかし現実にこの映画ではふたりは愛を成就させたはずだ。
ここで〈奇蹟〉の〈説明不可能性〉は極まる。
アポリアに陥った可能性はいくつかある。
1つ、これまでの解釈に論理的瑕疵がある。
2つ、作品に論理的瑕疵がある。
3つ、この作品は〈堕罪〉の作品であるからどちらであっても問題はない。
4つ、このままこの袋小路を認める。そしてそこに解決の糸口を見つける。
もちろん本稿では4つ目をとる。しかしそれは実は3つ目も排除しない。
その可能性はある。
なぜならこの〈不確定性〉と〈両義性〉はどちらもが同時に成り立つことであるからだ。
そしてそれをヴァイオレットの〈ブラックボックス〉と〈不確定性〉が秘める〈可能性〉として捉える――。
この〈不確定性〉があるからこそ〈不可能な愛の成就〉を突破して別の〈愛の可能性〉が――〈奇蹟〉は起きたのではないか?
・第ⅱ項.あなたの知らないヴァイオレット
あらためて述べるまでもないことだがそもそもなぜヴァイオレットにこのような〈わからなさ〉があるのかといえば、端的に彼女のモノローグがないからでもある。ナレーションもない。もちろん多弁でもない。
本作で彼女はギルベルトへの〈手紙〉を何度か書くが――そしてそれを読み上げる声はあるが――それではいまポイントとしていることが確定できないのだ。
実際にはことさらこのヴァイオレットの内心を探らなくても、本作は疑問を抱くことなく観られるようにできているようである。
そもそもフィクションのキャラクターが「本当はなにを考えているか」と問うてもそもそも決定的な答えはないといえる。
しかしギルベルトがヴァイオレットの「あいしてる」をあらかじめ知っていたのかどうか、そして「ヴァイオレットはギルベルトを理解しているか、理解しようとしているか」というのは一度その問いを立ててみれば、その前とは一変して、その考え方のいかんによって作品の見え方が根本的に変わりうる重要な問題であろう。
実はヴァイオレットの内心がわからないのはこの作品にとって必然的であるといえる。
なぜなら本作は〈手紙〉の物語だからである。
〈手紙〉をとおして、「ひとの心がわかるというのは、実は人の心がわからないということをわかること」なのだ。
そしてヴァイオレットがだんだんと人の心をわかっていくということは、彼女の心が本当はわからないということに、私たちが気づかなければならないということだ。
ヴァイオレットの〈ブラックボックス〉は私たちのヴァイオレットへの〈思い込み〉を逆照射する。そして打ち砕く――そのようなものとしてある。
第7節.彼岸にある映画
以降はヴァイオレットの〈ブラックボックス〉に入力するキーワードとそれから出力される内容を多角的に見ていこう。
今後の論旨を追うための参考に、ヴァイオレットという〈ブラックボックス〉に入力するキーワードと出力する中心的なキーワードをあらかじめいくつか列挙してみよう。
既出のもの――予告しておいたもの、ほのめかされていたもの――まったく新しいものがあるが、ここまででしっかりと準備は整えておいたつもりである。
ここではキーワードたちをちらっとでも目に触れておくだけでこの後に十分有用となろう。
これらである。
・ヴァイオレットの〈成長〉
・〈堕罪〉
・ヴァイオレットの〈解放〉
・〈手紙〉
・〈カオス〉
・ギルベルトの〈賭け〉
・ヴァイオレットの〈私秘性〉
・〈幽霊〉
・〈過去〉に届く〈手紙〉
・〈復活〉と〈新生〉
・ただの「あいしてる」
・〈狂気〉
・〈アガペー〉
・〈エクスタシーの神学〉
出力されたキーワードは次に入力のキーワードとして用いられもする。
すべての出力が終わったとき、「第5節.第ⅱ項.テイラーの〈未来〉とユリスの〈死〉から離れて/〈いま〉届く手紙」で「第Ⅱ章.残酷篇」の〈予示と反復〉の構造の〈逸脱〉から〈奇蹟〉に迫ったように、最後に「第Ⅰ章.エロス篇」が完全に解体されることで、ギルベルトとヴァイオレットのふたつの〈不可能性〉からどのようにして〈奇蹟〉が生じたのか、さらに〈奇蹟〉がもたらしたものがなんであったのかがわかるだろう。
さて具体的に見ていこう。
これからいくつかの重複する記述を行ったり来たりくりかえしながら螺旋を歩むように進んでいくことで、その言葉たちが描く軌跡は、いつしか〈奇蹟〉という〈ブラックボックス〉を透過する輝線となることだろう。
・第ⅰ項.私たちはヴァイオレットを見ていたのか?
【入力ワード:ヴァイオレットの〈成長〉】
本作においてヴァイオレットの〈成長〉が端的には、ユリスの危篤を知ってエカルテ島を離れようとした描写に如実にあらわされていると見なすのが普通なのかもしれない。
ではそうでないとしたら何を意味するだろうか?
ギルベルト≒ユリスの等式があれば明らかだろう。
※〈分身関係〉はもう解体されたのではなかったのか?と思われるかもしれないが、先に示した〈逸脱〉は〈多義性〉のパースペクティブでありそれらは――つまり〈分身関係〉とその〈逸脱〉の双方は――重ね合わされ同時に存在している。
これは重要なポイントである。
それは茫然自失となったヴァイオレットが生存と居場所を確認し自分を拒絶したギルベルトから死の淵にあるもうひとりのギルベルトであるユリスへ――。
つまり彼女は過去の戦争で経験した別れをやり直そうとする衝迫に導かれたのである。
そしてもうひとつ。
嵐の後の郵便社への帰途もまたギルベルト陥落への長期的戦略――。
(※『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデSTORYBOARD』には「嘘はついていない」とある……。天性の魔性というのは手垢のついた表現となるが……。)
この視点から見るときヴァイオレットはユリスの死の罪(※思い出そう、ユリスはギルベルトの生存と引き換えに死ぬのである)と責任を、そうでなくとも約束を違えた少なからずのやましさ抱えてしかるべきであろう。
しかしそれを歯牙にもかけないイノセントで残酷なエロス――。
それがヴァイオレットのエロスであった。
だがそれだけなのだろうか?
ヴァイオレットの〈成長〉といわれているものには他にどういう意味がありうるのか?
それを彼女のエロスの〈変容〉――その〈可能性〉のなかに見てみたい。
それはいずれヴァイオレットの〈解放〉も意味することになる――。
ヴァイオレットの〈解放〉は嵐が打ち据える大粒の雨とともにあらわれる。
それは〈水〉とともに表現された彼女のエロス――裸身の露出であり――まさに誘惑者としてのヴァイオレットの媚態である。
その裸体のエロスによってヴァイオレットはギルベルトに迫り続けるのだ。(以下の画像を参照)
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)
その大粒の雨と彼女の〈涙〉によって彼女のエロスは――〈解放〉の萌芽という別の意味を帯びる。
ひとの心がわかるという内心が獲得されていくとともにその内心が不透明になり、やがて〈ブラックボックス〉となる。
そしてもしヴァイオレットがひとの心がわかっていったとすれば当然なによりもギルベルトの心がわかっていったということになる
つまり背徳的なエロスを――。
そうであるにもかかわらずますます愛していくのだとすればヴァイオレットのエロスのイノセントの意味が変わる――。
盲点だった。驚きである。
〈過去〉と、出会ったころと〈いま〉ではひとの心がわかった分、当然愛の意味、彼女のエロスも変わるはずだからである。
同じままであると思っているのは観客である私たちが彼女を理解できていないことの証左である。
しかしその視点からエロスの〈変容〉がどう変わったのかは依然〈ブラックボックス〉である。(※当然まったく変わってないという可能性を排除するものではない。)
ただこうはいえるのではないか。
「わたしたちは彼女を理解できないしそれをおそれている」
もしかしてここで――ヴァイオレットは私たちが知らないだけで――実は一方的にギルベルトと共犯となって〈堕罪〉しているのではないか?
しかしそれは私たちの思考をあまりに置き去りにしてしまっている。
ヴァイオレットという女性を見失ってしまっている。
私たちが見失ってしまった以上もう〈堕罪〉とは呼べない。
呼ぶものがいない。
ヴァイオレットは私たちの手から離れる――。
【出力ワード:ヴァイオレットの〈消失〉/〈堕罪〉?/〈解放〉】
・第ⅱ項.ふたりの亡霊、ヴァイオレットとギルベルト
【入力ワード:〈幽霊〉】
前項ではヴァイオレットの〈消失〉と〈堕罪〉が出力された。
本項ではいささか唐突かもしれないが、これまでもバックグラウンドで密やかに薄っすらとほのめかされていた〈幽霊性〉あるいは〈亡霊性〉を前景化してみたい。
ヴァイオレットのエロスは〈水〉とともにあるのであった。
では打たれる雨に比してみずからの船から海への飛び込みを〈自己洗礼〉という観点から見ることで別の意味を持ちうるのではないか?
つまりヴァイオレットのエロスの〈水〉は生まれ変わりの〈洗礼〉となるということである。
生まれ変わるということは一度死ななければならない。もしくは死んでいなければならない。
そう、ヴァイオレットは――いやなによりもギルベルトもまた死んでいるのである。
戦争によって――。
ヴァイオレット ≒ 幽霊 ≒ 亡骸 ≒ ドール
であり
ギルベルト ≒ 修道会の病院で見た兵士の亡骸 ≒ 幽霊
である。
では彼女たちを〈幽霊〉であると見なしてみよう。
いつからか?
彼女たちが離れ離れになり腕を失いベッドの上で目を覚ましたときからである。
ヴァイオレットは自室のランプの灯りに照らされ〈過去〉のギルベルトに魅入り――ギルベルトは炉の火に焦がされて戦時に戻る。
(以下の画像を参照)
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)
彼女たちは死ぬ前の世界を思い出す――。
〈幽霊〉がこの世に未練を残すように――。
彼岸の太陽――死者の目を開かせる――が炉とランプに灯る光なのである。(以下の画像を参照)
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)
そしてそれは最後にヴァイオレットの〈自己洗礼〉とギルベルトの〈賭け〉によってやがて月の光へと変わるのであるが――。
やや先を急ぎすぎた。
〈幽霊〉であることによってなにがもたらされるか?
エロスの背徳性の無効化である。
なぜならあの世に漂うふたりはこの世の戒律に縛られないからである。
ここでもこの映画のなかには彼岸と此岸が重ね合わされ同居している。
その〈両義性〉と〈不確定性〉を見抜くことが肝要であることはこれまで何度も指摘してきたとおりである。
ヴァイオレットとギルベルトの出逢いから――別れと〈死〉から〈新生〉の物語へ――。
この観点からの『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』とは――ふたりは死んで離れ離れになり再会することで甦った――〈復活〉と〈新生〉の物語である――。
【出力ワード:〈復活〉と〈新生〉】
・第ⅲ項.屍人のエロス
【入力ワード:ギルベルトの〈解放〉】
「本節.第ⅰ項.私たちはヴァイオレットを見ていたのか?」でのヴァイオレットの〈解放〉とは――ギルベルトの〈堕罪〉をともにすることでの――私たちの彼女への思い込みの暴露にあった。
彼女は私たちの考えの及ばないところにある――。
ではヴァイオレットの目論見――ギルベルトの〈背徳〉のエロスをともにする〈堕罪〉――からそれる彼はありえないのか?
ギルベルトにとっての〈解放〉――私たちとヴァイオレットからの――があるとすればそれは何か?
それは罪からの〈解放〉にあるかもしれない。
それが可能であるとすれば――。
見てみよう。
ここまでではまだギルベルトとヴァイオレットのふたりの〈不可能性〉は背徳と〈堕罪〉にとどまるのであった。
※確認しておこう。
ギルベルトは――彼のエロスは〈背徳〉である。
これでいいだろう。
ヴァイオレットの場合は、
彼女の
「〈不確定性〉が〈ブラックボックス〉であり、
〈両義性〉とは
「ヴァイオレットはギルベルトを理解していない/しようとしていない」
かつ
「ヴァイオレットはギルベルトを理解している/しようとしている」
である。」
であり、
どちらにせよギルベルトとの共犯による〈堕罪〉という袋小路であった。
もしこのままであったとすれば、本作のふたりの再会という愛の抱擁の意味は――過去の戦争での罪責とユリスの犠牲という〈残酷〉だけでなく――これからの愛の生活という背徳によってヴァイオレットとともに決定的に〈堕罪〉するということになる。(※「そんなものを見たのではない」というほぼすべての方は本当にそうか、なぜそうでないのか確かめてみてほしい。)
この場合、ギルベルトはヴァイオレットの〈ブラックボックス〉とは関係を持たない。
具体的には、観客とともにあるままの――つまり私たちから逃れ去ってない――〈解放〉されていない――ヴァイオレットの「あいしてる」と同根の――ギルベルトの「あいしてる」も彼のエロスの思惑のまま変化していないということである。
これではまったくふたりは関係を結べていない。
すれ違っているというより同じ地平にそもそも両者が現れていない。互いが互いのなかでのみ存在する相手を求めているというだけのことである。
これはギルベルトの〈堕罪〉のエロスとヴァイオレットのイノセントなエロスの仮初の野合である。
ただ最後の抱擁と「あいしてる」は〈両義的〉で〈不確定〉な重ね合わせの複数の意味を併せ持つ。
よって先のエロスの野合の側面もまた確実にあるということである。
これがいままで背徳的エロスと呼称してきたエロスのひとつのあり方であり〈堕罪〉ということである。
ふたりの〈不可能な愛〉がこれで成就したといえるだろうか?
している。
というよりはこれしかないのである。
一方通行な仮初な愛こそが絶対的な〈不可能性〉の前でかろうじてありえる愛のかたちなのである。(※さてあなたの愛はどうだろうか?)
しかし私たちはすでに違う道筋も見出しつつある。一条でもないいくつかの――。
まずヴァイオレットの〈消失〉、〈解放〉の側面を確認しよう。
これは私たちが把握し得ない〈ブラックボックス〉としてのヴァイオレットがギルベルトの背徳的なエロスを熟知し、私たちと一緒にギルベルトも知らないところで包み込み、ともに〈堕罪〉するということであった。
これがもはや〈堕罪〉といえないのはヴァイオレットが私たちから〈解放〉されその罪悪を判定する物差しが無意味になるからであった。(※もちろんどこまでも彼女に追いすがることもできるだろうが――。)
次はギルベルトである。
彼が修道会の病院で目覚めたときに死していた――という〈幽霊〉であること――。
これを〈分身関係〉の〈逸脱〉だとすると――ギルベルトのユリスの病室での出現と憑依の意味は〈分身関係〉から〈幽霊性〉に席を譲ったということである。
※正確にはギルベルトのユリスに対する〈分身〉/〈幽霊〉の二重性の〈不確定性〉に彼を置くということである。
ユリスの〈幽霊性〉とはもちろん彼は死ぬものだからである。
これは『外伝』のイザベラ/エイミーという名と彼女の〈死〉/〈隠遁〉の存在の二重性による重ね合わせの〈不確定性〉と類比的である。
なぜなら――覚えておいでだと信じているが――ギルベルトはユリスだけでなくイザベラとも〈分身関係〉にあったのだった。
この〈変容〉の影響は甚大である。
これまで「第Ⅱ章.残酷篇」で導いたユリスの〈死〉の意味はひっくり返り灰燼に帰す。
ユリスの(背徳性はなくなり)死に意味はなくなる。
つまり彼は贖罪の羊ではなくなる――かわりに〈幽霊性〉を共有する。
よってギルベルトのエロスの背徳性はその分免じられるだろう。
しかしヴァイオレットに対するエロスの背徳性はそのままではないか?
それでいいのである。
このひと粒の変化が決定的に重要なのだ。
〈幽霊〉となった(つまりそう解釈されることによってこそはじめて)ギルベルトはヴァイオレットの〈ブラックボックス〉に向き合うことができるのである。
ただ彼女への罪が逆説的に彼を――私たちと同様に〈不確定〉であらかじめ〈想定不可能〉となった――彼女に再び出会わせるのである。
その〈可能性〉が開かれる――。
ギルベルトの〈復活〉と〈新生〉――。
【出力ワード:ギルベルトの〈復活〉と〈新生〉】
ここまででヴァイオレットとギルベルトの〈解放〉と〈新生〉が出力され出そろった。
ここで別の側面からアプローチするためにも一旦節を新しくはじめることにしよう。
(連載第9回【第Ⅲ章.奇蹟篇 第8節.おそれとおののき/ヴァイオレットの〈手紙〉の〈ミステリー〉】に続く)
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