【連載第9回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】
※▼第Ⅲ章.奇蹟篇
第8節.おそれとおののき/ヴァイオレットの〈手紙〉の〈ミステリー〉
・第ⅰ項.ヴァイオレットを見失うということ
・第ⅱ項.私たちは知り得ないということ、そのこと
※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版/「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最低限の魔法のスペル/「感動した、泣いた」で終わらせないために/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』/あるいは隠れたる神と奇蹟の映画/検索ワード:批評と考察】の分割連載版となります。記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。
第8節.おそれとおののき/ヴァイオレットの〈手紙〉の〈ミステリー〉
・第ⅰ項.ヴァイオレットを見失うということ
【入力ワード:ヴァイオレットの〈手紙〉】
これまで〈不可能〉な〈愛の成就〉――〈奇蹟〉への接近を、ヴァイオレットの〈ブラックボックス〉から――彼女の密やかな〈堕罪〉の共犯、彼女のエロスの変容、ふたりの〈幽霊性〉――〈復活〉と〈新生〉として素描した。
ところで
〈幽霊〉は互いに出逢えるのだろうか?
〈幽霊性〉をこの物語に導入することは様々な〈可能性〉を新しくもたらしてくれる。
それはこういうものだ。
〈幽霊〉であることでギルベルトはユリスを犠牲とすることはなくなった。(最初から死んでいたのだ!そして現在にいたるまでずっと――。)
〈幽霊〉だからこそヴァイオレットはギルベルトを理解していない。
できない。
ヴァイオレットはギルベルトを感知していない。
〈幽霊〉であるのだから――。
そうあるとしてこれは問題だろうか?
いや、〈不可能な愛〉に他者を完全に理解すること――ひょっとしたら少しでも理解すること――は関係ないのである。
そもそもそんなことはそれこそ〈不可能〉なのだ。
逆である。
理解できないということ――他者の――相手の心がわからないことをわかること――。
それが重要なのだ。
ヴァイオレットの心の〈わからなさ〉――〈ブラックボックス〉をさらに考えてみよう。
ヴァイオレットは私たちが知らないことを知っている。
彼女が他者の心の理解とともに彼女自身の心を獲得している間に――その反対にぼーっとそれを見ていた私たちは――彼女を見失っていたのだ。
ここから今度はヴァイオレットと私たちの関係がひっくり返る――いや、はじめて関係が結ばれる。
「われわれはヴァイオレットを理解しているのか?なにを知っているのか?そもそも私たちは何を見ていたのか?理解したつもりになっていたのか?」
これらを彼女が何を考えているのかがわからないことでやっと気づく!
ここから遡及的に『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のすべては最後まで私たちのただの思い込みであったかもしれないことを突きつけて終わる。
推理小説のようには解けない〈謎〉を残して終わる。(※もちろん本論はここで終わらない。ひっくり返したものはもとに戻らないようにまたひっくり返すつもりである。どのようにかはこの先で――。)
そしてそもそも誰がこの〈謎〉を〈謎〉として眺めていたことだろう?
この〈謎〉こそが彼女の真の〈解放〉――ヴァイオレットにとっての〈新生〉――〈水〉=エロスと〈洗礼〉の〈不確定性〉である。
これは以前にも述べたとおりだ。
ではなにから〈解放〉されなくてはならなかったのか?
作品を編む幾重もの〈間接性〉――内心、心の声、〈ブラックボックス〉――ナレーションとモノローグの不在――義手で書かれる〈手紙〉――。
その〈手紙〉が伝えるものとは何か?なにが本心か?そもそも本心を伝えるものなのか?伝えたいことを伝えることは可能なのか?本当はなにを伝えるのか?
ここで〈手紙〉についてあらためて考え直そう。
この物語はなによりも〈手紙〉の話だったのだから――。
ヴァイオレットの〈手紙〉は何だったのか?何をもたらしたのか?
〈手紙〉そう、これが『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の、彼女の〈ブラックボックス〉が象徴していたものだ。
本作が〈手紙〉の物語なのだとすればそれは同時に〈ブラックボックス〉の話なのだ。
〈手紙〉=〈ブラックボックス〉
どれだけの人がそれに気づいているだろうか?
それも宜なるかな。
なぜならこれはヴァイオレットの観客からの分裂、独立、自律であり、彼女から疎外感すら感じるということであるからだ。
正しく現状認識ができているのであればこちらの安全安心が脅かされるということだからだ。
これが彼女のイノセントであると同時に盲目的で狂信的なギルベルトへのエロス――それに彼女が囚われているかのように感じる正体でもある。
だが、観客はここでギルベルトとともに彼女を愛する(知る)〈可能性〉が開かれる――まだ〈不確定〉な端緒に過ぎないが。
いや、待って欲しい!ギルベルトはヴァイオレットの自分への想いを知っている。だからこそ逢わないのだとさんざん云っていたではないか!
そう、それは知っている。しかし問題は「あいしてる」ではなく「あいしてる」とは何か?なのだ。
ヴァイオレットはギルベルトを「あいしてる」――なぜか?それはどういうことなのか?――それがまったくわからない。
この深淵のおそろしさ――「あいしてる」の〈ブラックボックス〉――にたじろいだのだ。
ギルベルトがおのれの〈背徳〉のエロスにおののいているうちはまだのどかだったのだ。
しかしヴァイオレットが実際に目の前に現れ、自身のエロスに何ら障害がないことを確信したとき、もうひとつの本源的な、エロスをたじろがせるがゆえに禁忌の侵犯としてよりエロスを亢進させる――ヴァイオレットの〈未知〉が現れたのだ。
そしてその〈未知〉は私たちの〈無知〉でもある――。
ヴァイオレットが何を考えているのかを理解できないことに気づくことで、つまりギルベルトとともに私たちは〈無知〉であることが露呈する。
しかしギルベルトは〈無知〉の前で――ここでこそ一人果敢に――彼女の前に立つのである。
そこではもはや彼の背徳的なエロスのその成立根拠は無効になるのだ。
それは直ちに彼のエロスが背徳的なものでなくなるということではない。そうではなく彼女に審問されるということだ。
彼女の〈ブラックボックス〉という真空のなかにサスペンドされるということ――。
〈不確定〉な彼女のなかの自分と向き合うということだ。
ヴァイオレットは何を考えているのか――何を望んでいるのか――彼女とは何なのか――まったくわからない彼女に自分のエロスを、自分自身を――査問にかけるということだ。
それで自分がどうなってしまうのか、これまでと変わってしまう恐怖――自分が壊されてしまうリスクを負って〈未来〉を迎えるということなのだ。
このギルベルトの〈賭け〉が〈不可能性〉が失効する〈奇蹟〉の場を開く。
ヴァイオレットの〈私秘性〉〈私秘的愛〉〈手紙の私秘性〉〈私秘的な手紙〉――。
これがギルベルトの〈不可能性〉を揺るがせ〈奇蹟〉を追い越すものである。
ヴァイオレットが私たちからもギルベルトからも遥か遠くに歩みを進めていた――いつからか、あるいははじめからそこにいた――からこそ、彼はその遠点に旅立ち飛翔することが可能になった(そういう物語であるのかもしれないのである)。
【出力ワード:ギルベルトの〈賭け〉】
・第ⅱ項.私たちは知り得ないということ、そのこと
【入力ワード:ヴァイオレットの〈私秘性〉】
ヴァイオレットの〈私秘性〉――〈手紙〉これが〈ブラックボックス〉であった。
そしてこの〈私秘性〉こそがギルベルトの背徳的なエロスとヴァイオレットの〈未知〉という〈不可能性〉から彼を引き離し〈奇蹟〉を、〈愛の成就〉を可能とする〈賭け〉に向かわせたのだった。
〈私秘性〉は重要な概念である。
しつこいようだがどういうことであったか繰り返そう。
ヴァイオレットの〈私秘性〉をこれまでいくらか触れた〈両義性〉、〈不確定性〉とすり合わせていこう。
それはまったくの無規定であるかもしれない。どこにも何も決まっていないかもしれない。
たとえばこういうことだ。
ヴァイオレットはギルベルトを最後まで理解しようとしない。
していないというならば「少しはわかる」とは何だったのか?
つまり彼女がわかるということをそもそも私たちがわかっていたのか?
そんなことがそもそも〈可能〉なのか?
私たちはメタ的に、彼女にもひとの心がわかるようになったと思っていた――しかし、彼女の心がわからないことで決してそれがわかっていないことに気づかされる。
彼女は興味なさげに無言で(いやそもそも私たちは彼女といかなる意味でも関係していない、ゆえにこちらが勝手に追いすがって夢想しているのであるが)「あなたは私を理解しているの?」と思い知らせてくる(いまやそうなった)。
彼女が興味あるのは最初からギルベルトだけだ。
そして私たちはそこで彼女を見失う。
ヴァイオレットの〈ブラックボックス〉という〈不確定性〉――。
そういうことだった。
これがひとつのヴァイオレットの〈私秘性〉である。
あるいはヴァイオレットはギルベルトのエロスを理解していたのかもしれないという〈不確定性〉もあるだろう。
「少佐、私はあなたのあい(エロス)を知っています」
慄然とするセリフであろう。
そんなはずがない?
彼女がそれを知らないと、云うはずがないとなぜ私たちは知っているのだろう?
これもヴァイオレットの〈私秘性〉である。
あるいはすべてがそこから生まれてくる〈カオス〉といってもよい。
ヴァイオレットの〈私秘性〉を前にしたギルベルト、〈カオス〉に触れた彼に何がもたらされたのかだろうか?
ヴァイオレットの〈手紙〉が意味をなすのはここである。
決してそこではじめてギルベルトへ「あいしてる」を伝えたのでも、ギルベルトにとって既知のそれをくりかえしたのでもない(重要なのでくりかえそう)。
それでは本作に、彼に、何の転機ももたらしはしない。
ヴァイオレットの〈手紙〉が伝えたのは彼女の〈私秘性〉であり〈カオス〉であり擾乱である。
その〈両義性〉、〈決定不可能性〉である。
この以前以後において――ギルベルトは罪の意識に苛まれたエロスを拒む、拒まないという位相にある主体ではなく――新たな選択、決断、〈賭け〉を担う主体として生まれ変わったのである。
ヴァイオレットの〈手紙〉という入力から〈ブラックボックス〉が吐き出したものは
①自分を理解していない彼女をただ愛するという決断であり、
②自分のエロスを知っている彼女を受け入れるという〈不確定性〉であり、あるいは
③まったく〈想定不可能〉な〈未知の他者〉としてのヴァイオレットへ再び、そしてはじめての、矛盾した「あいしてる」を伝えるという選択と決断の〈賭け〉であった。
では以上をもたらした〈手紙〉とはそもそも何か?何を伝え、何を伝えないのか?
ギルベルトの〈決断〉の誘引はその前史がある。まず
①伝聞、新聞記事、間接的なヴァイオレットの生存によってエロスは再びさらに大きく燃え上がらされ、
②ヴァイオレットの来訪による声、口頭によって己の中のヴァイオレットとの答え合わせがなされた。
そして
③〈手紙〉により再び〈謎〉にかけられる――〈未知〉に対する〈無知〉――。
「わたしは、少佐を愛しています」
最後の一文はヴァイオレットの本心が伝わったのではなく、〈謎〉としてギルベルトを惹きつけた――恐怖とともに――からこそ彼を動かした。
ただ動いたのである。
〈手紙〉は本心が書かれそれが伝わるものではない。
よって〈手紙〉には後史がある。
④ヴァイオレットとギルベルトの〈再会〉である。
あの長い長いのヴァイオレットの云いよどみ――口で直に伝えることと〈手紙〉との乖離。
ここにこそヴァイオレットが何を云いたかったのか――何を知っているのかが不分明であることが――これ以上なく露呈している。
〈手紙〉はそれがそもそも届かないこと――必ずしも目的の相手に届かないこと以外にも意図したことが誤読されること――何が書いてあるかわからない――という〈秘密〉を宿すミステリーであった。
〈手紙〉のミステリーにギルベルトは誘引されたのである。
ここではヴァイオレットとギルベルトの間だけでなく彼女たちと私たちの間でも決して解かれることのない〈謎〉が提示されているのだった。
本作『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が最後に残すのは――ずっと彼女を見守りそのすべてを知り尽くしているかのように見ていた私たちから――それがそもそも最初から思い込みに過ぎず――逃れていくという彼女の〈解放〉と〈再生〉と〈新生〉の物語であったということである。
彼女のことは知り得ないということ――。
それがあるということを強烈に印象づけられる。
迫ってくる。
そしてこの〈謎〉が決して解かれえないのはヴァイオレットが私たちの手を離れてしまったからであった。
【出力ワード:ヴァイオレットの〈手紙〉の〈ミステリー〉】
さて、そろそろ終盤である。また節をあらためよう。
(連載第10回【第Ⅲ章.奇蹟篇 第9節.ヴァイオレットもギルベルトも知らないこと、私たちしか知らないこと】に続く)
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