【最終回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】
※▼終章.「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最後のスペル(承前)
※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版/「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最低限の魔法のスペル/「感動した、泣いた」で終わらせないために/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』/あるいは隠れたる神と奇蹟の映画/検索ワード:批評と考察】のの分割連載版となります。
記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。
◆
はじめるべき〈ここ〉とはこの現実――本論の記述――魔法のスペルのことである。
一種の狂乱から酔いが冷めたいま――脱魔術化してしまった現状において――整理しながら簡潔平明にヴァイオレットへの〈神〉にいたった道のりを跡付けてみよう。
本論が目指したのはこういうことだ。
まずは「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」という〈謎〉を解くには何が必要か?
当たり前なのだがこの問いは、本作の舞台に現実の世界を超える科学水準や魔法その他の超常的力が存在していないため、常識的に整合性のある答えがない。
通常はツッコんではいけないところであって、フィクションが現実と整合的である必要などないのだからそういうものなのだとしておけばいい以外にない。
よってこう考えなければならない。
「『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はこの問いによって新しい相貌を見せるのだとしたらそれはどういったものになるのか?」
ということである。
あらかじめ作品に解くべき〈謎〉があるのではなくて、作品の後に生まれた〈謎〉が事後的に「もう一度、そうであったかのように」作品を生まれ変わらせるのである。
そしてこれが〈批評〉である。「批評家とは作品の第二の作者」であってみれば。
本稿の題名にある最初の問いの答えは結末のここにおいて答えられるまでに別の問いを〈奇蹟〉として考えていくことで大きく迂回してきたのだった。
その中心的問いは「ヴァイオレットとギルベルトの〈愛の成就〉はどうして可能になったのか?」であった。
これも最初の問いと同じく問いが作品の見方を刷新するものである。
なぜなら本稿では一貫して「〈愛の成就〉は不可能である」を大前提としているからである。
そして本論は不可能であったものが可能になったという単線的な結論を下したものではない。
「もし可能であったとすればそれはどういうことになるのか?」という視点から浮かび上がってきたものを紡いでいったものだ。
だから問いは作品解釈そのものの仮定でもある。仮定は作品そのものと不可分なのである。
別の仮定の問いからは別の作品が生まれてくる。
作品を観ること、批評することとは絶えず「問いから開かれた地平において作品を観る」試みである。
〈愛の成就の不可能性〉はそれが〈不可能〉なのであるから〈奇蹟〉といことになる。
そしてこの〈奇蹟〉がこの作品に胚胎したときをもって〈神〉の座は打ち立てられたといえる。
どこに?
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』と私たちとの関係のなかにである。
どうしてか?問いと作品は不可分なのであったのだから。
このはじめから存在していたことになる〈神〉の座をそれと名指しするまでに筆者がたどった道のりは、一言でいってしまえば「ヘブライズムとヘレニズムの痕跡の発見と発掘」というものだった。
これはここまで読み通せば一目瞭然であろう。
ではあらためて簡単に振り返ってみよう。
ヘレニズムとしては、なによりプラトンを代表としたエロスが本論の中軸として欠かすことのできないものとなった。
その他にはエカルテ島の自然の描写に古代ギリシャの自然哲学者たちのこだまを聞いたのだった。
もちろんエカルテ島のモデルがまさにギリシャのフォレガンドロス島とされることの意味も大きい。(エカルテ島のモデルについては【ふむ】🌸氏TwitterのTLを参照)
ヘレニズム以上に濃厚なのがヘブライズム的な象徴の数々であろう。特にキリスト教である。
まず、直接的にはいままでおそらく意図的に排されてきたであろう濃厚に宗教性を帯びた単語としてギルベルトが目覚めた「修道会」がある。
このたったの一語の意味は本作のキリスト教的モチーフを読み取っていくうえで決定的に重要である。
本作にキリスト教的モチーフが多用されている点は舞台のモデルであるヨーロッパを細密に描けば、色濃くその香気を纏うのは当然ともいえる。
その他の細かなキリスト教を中心としたヘブライズムモチーフの数々は本論に直接あたっていただくとして特に重要なものだけを列挙するにとどめよう。
さまざまなところに印象的に配される十字架、〈死〉からの〈復活〉と〈新生〉――。
そして本論の中核的骨子となる予型論的モチーフは〈予示と反復〉の構造、〈分身関係〉として詳述した。
たとえばユリスを贖罪の羊とする解釈はアブラハムのイサク献供、イエス・キリストの磔刑を予型としている。
以上のような濃密な宗教的バックグラウンドから「〈愛の成就〉は不可能である」と「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」というふたつのありえない事象を問うことが――つまり本論が書かれるということがすでに歴然と〈神〉に触れる行為としてあったのである。
「ヘブライズムとヘレニズム」を本作から読み取ること、本作をそう読み込んでいくこと、それが〈奇蹟〉と〈神〉の胎動が次第にシンクロしていくプロセスとなっていったということ――これが筆者が本論を書き進めていく上で重要な指針となった。
そして読み手も筆者と同じそのシンクロの道程を追体験できるようなものとすること。
本論はそれを目指されて書かれたし同時にそれに導かれて記述されていった。
そして本論はフィクション内の〈奇蹟〉として〈愛の成就〉に、ヴァイオレットからの現実への越境として〈ただの「あいしてる」〉にまでいたったのであった。
では〈神〉はどうだろうか?
くりかえそう。
いかなる意味でもノンセンスだったはずのヴァイオレットからの「あいしてる」を受け取った私たちはいまこそ、「あいしてる」を――〈外〉からの力である〈神〉を――「もしそうでないとしたら?」の問いが開く「どこにも存在できない」場所としての〈ここ〉からそれを――はじめなければならない。
ヴァイオレットへ――。
再び狂気のなかへ――。
わたしの〈エロス〉から――。
私たちの現実という〈ここ〉から、私たちはヴァイオレットへの〈エロス〉を導いたはずの〈アガペー〉を、〈外〉からの力として〈神〉を、彼女におくりかえしていたといえるだろうか?
ここでもう一度同じ問いをくりかえそう。
「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」
いま、ヴァイオレットの世界に〈神〉は生きているだろうか?
「このように問うときにすでに『フィクション内における神の存在証明』という次元とは別の次元の開闢が仄見える」と、もしそうだったとしたら何が?
ここで〈問い〉とは何かを明らかにしておこう。
〈問い〉とはいままで不可能という様相としてすら存在していなかった〈不可能性〉を可能とする〈可能性〉を創造する土台を、〈不可能性〉に先立って創造することである。
創造された――〈可能〉となった――〈不可能性〉とは〈不確定性〉である。
よって〈可能〉となった〈不可能性〉は新たな〈可能性〉と別のものではない。
つまりこれは生成変化するトートロジーのトートロジーのことである。
具体例を見ていこう。
もちろん
Q1「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」
この〈問い〉がもたらしたものこそ第一に解明されるべきものである。これが〈不可能性〉に先立って創造した〈可能性〉とは何か?
「動くのか?」と問うとき、そこにはすでに「動く」〈可能性〉と「動かない」〈可能性〉が――その〈不確定性〉が生まれている。
こうして『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のなかに〈問い〉によって新たな胎動が――〈未知のもの〉が宿る〈可能性〉が生まれる。
これを展開されるといってもいい。
なんでもいいわけではない。その〈問い〉がさらなる展開をもたらすこと――それだけが唯一の目的となること――自己充足的であること――自己目的となること。
つまり〈なにもなさ〉の生成変化するトートロジーのトートロジーに参入していなければならない。
たとえばこう展開されるだろう。
先の〈問い〉Q1の答えは
A1「この映画の世界に現れる神の力によって義手は動かされるから」
であった。
ここから
Q2「『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界に神いるのか?」
これは先に最悪な問いであるといったものとほぼ同じであるが、展開の過程にあるときそれは別のものとなる。
これは次に〈神〉が存在する〈可能性〉と存在しない〈可能性〉となり
Q3「神が存在する根拠とはなにか?」
あるいは
Q4「神が存在しない根拠はなにか?」
とこういう展開もあれば、そもそものQ1を次のようにも展開できる。
Q5「『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界の神は〈どこ〉にあらわれているか?」
これは権利上はQ1以前の〈問い〉というべきものである。
しかし事実的にはQ1のみならず、あらかじめA1を踏まえることで展開することが〈可能〉となった〈問い〉である。
つまり無根拠かつ恣意的なはずの〈神〉は突然A1に不法侵入したかのごとくであったが、〈問い〉が展開されていくことによって、A1の母胎であったはずのQ1のさらにその母体としてのQ5にすでにあの〈神〉は宿っていたのである。
実際の〈事実的〉流れはいまのように
Q1→A1→(Q2→Q3∨Q4→Q6……)〈Q5→A5……〉
であるが
事後的に〈権利的〉に新たに〈可能〉となったのは
Q5→A5(Q1→A1→Q2→Q3∨Q4→Q6……)
という展開である。
ここで〈問い〉の展開の〈可能性〉の無時間的な拡張が引き起こされているのがわかるだろう。
〈事実的〉展開から〈権利的〉展開へは断絶があり思考の飛躍がある。
必ずしもこのように展開されるという保証はない。
まさしく〈神〉が宿ることによって、ということになるがそれについては後述する。
さて、では最初の〈問い〉であった
Q1「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」から時間を逆行することで存在が〈可能〉となった〈問い〉である
Q5「『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界の神はどこにあらわれているか?」
これに答えよう。
この答えを導くのが本論であったのである。
答えはA1を展開したものとなるだろう。
すなわち
A5「ヴァイオレットの義手が動くというそのことにおいて」
これ以外の答えをしてもよいだろう。
たとえば次のようなのはどうだろう。
A6「この映画の最後でそれまで働いていた〈神〉の力が〈去った〉と解釈することによって」
これは具体的にはどういうことかというと、本論において『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の〈愛の成就〉である〈奇蹟〉は〈ただの「あいしてる」〉という〈なにもなさ〉をフィクションとして永遠にとどめるということであったが――そのとどめた永遠が再びフィクション内の時間のなかに散逸、滲出してしまうということだ。
つまり絶えざる生成と消滅にさらされ再び〈不確定性〉の〈カオス〉の回帰をこそ、明確に描かないことで描いていると、そう考えるのである。
たしかに永遠の無時間とその破れは事態の裏表であり妥当な解釈であろう。
だとすると、たとえばこうなる。
ヴァイオレットが月夜の海で最後にギルベルトの背に腕を回さなかったのは、回さなかったのではなく回せなかったのだと読むことも可能だろう。
そのとき〈神〉の力は〈失われた〉のだと――。(以下の画像を参照)
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.153)
ヴァイオレットというエロティックな〈妖花〉が咲くためには〈水〉と太陽光が必要だと述べたことがあった。
だがこの最後にあるのは月光と海水である。
そこには戦火の姦しい〈死〉ではなく静謐な〈死〉を予感させる――。
エンドクレジット後の十字架を背に指を切る姿は――〈神〉に捨てられたがゆえのつながりのように――世界にたったふたりだけのように――〈幽霊〉から〈死〉からの〈復活〉と〈新生〉ではなくさらにより深く死んでいるようにも見える――。(以下の画像を参照)
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.160)
Q5「『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界の神はどこにあらわれているか?」
のふたつの答え
A5「ヴァイオレットの義手が動くというそのことにおいて」
と
A6「この映画の最後でそれまで働いていた〈神〉の力が〈去った〉と解釈することによって」
これらはどちらもすでに〈神〉の存在を前提としているが、A6は存在証明というよりはさらに別の〈可能性〉を孕んだ前提の上でなされている。
つまり〈問い〉の展開がさらに進んでいるのがわかるだろう。
しかし本論に則って展開を引き戻すとすれば、何も問わないのもいいのかもしれない。
つまりそもそもヴァイオレットの義手がなぜ動くのかを〈問う〉必要はない。
なぜならすべては無根拠であるのだから。
それが〈なにもなさ〉ということだった。
ただこう述べていたのだった。(第12節.ヴァイオレットの凍りついた「あいしてる」)
〈なにもなさ〉の「あいしてる」とはこれまでのすべての経験と既知の情報を殺し死に至らしめ〈未知のもの〉に出逢う瞬間のことだ。
それはひとつの経験からはじまる。
現実において何の意味もない〈なにもなさ〉の「あいしてる」――その徹底した無力を現実において思考したという経験――その唯一性だ。
言葉にすること概念化することで失われる〈なにもなさ〉――。
しかしその思考の経験という〈痕跡〉は残る。
その〈痕跡〉を証し立てるのが『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という映画なのだ。
この不思議なフィクションからの誘い――〈エロス〉をかきたてる「あいしてる」は狂気への誘いだ。
〈もしかしたら〉と誘引させること。
これが思考の経験への入り口だ。
……フィクションからの「あいしてる」――ヴァイオレットの「あいしてる」がもたらす法外な経験とは――あの〈なにもなさ〉の絶えざる殺害と新しいもの――〈未知のもの〉の入れ替わりの無限の反復運動を凍りつかせて永遠にとどめて思考に刻むことだ。
さながら死からの〈復活〉を一回限りの出来事として歴史に残すように――。
〈なにもなさの〉という〈奇蹟〉のさらなる〈奇蹟〉――。
この〈経験〉――『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という〈経験〉――ヴァイオレットへの〈エロス〉がもたらした思考の〈経験〉という〈未知のもの〉の〈痕跡〉――。
本論はこの〈ただの経験〉以上のものではない。それで尽きる。
では無根拠の〈なにもなさ〉から――これまでの思考の〈経験〉から――まったくの〈真空〉から――誘引された〈もしかしたら〉から――なんでもいい、たとえばこう問うてみたらどうか。
Q7「この世界の〈神〉として、私がその〈神〉だとして、その視点から、ヴァイオレットらに何ができるだろうか?」
この問いは〈不確定性〉が孕んだ〈可能〉となった〈不可能〉な問いだろうか?それとも新たな〈可能性〉の展開だろうか?
「Q7」のこの世界とはどの世界だろうか?この世界の〈神〉とは?私は?〈神〉?
さて、本当に最後だ。
まとめよう。
ヴァイオレットの義手を動かすためには私たちという〈外〉が――インタラクションによる〈奇蹟〉が――〈アガペー〉が――〈神〉の力が必要なのである。
α〈神〉=〈なにもなさ〉=〈カオス〉なのであるからこの〈神〉には何の根拠もない。
なぜ〈神〉なのか?は無根拠だということだ。
むしろなんでもよいがゆえに〈神〉なのである。
ただし私たちは、もし〈ただの「あいしてる」〉を、〈アガペー〉を受け取ったのであれば、すでに〈アガペー〉をおくったのではないか?
そうであるかもしれないのである。そしてそうでないかもしれないのである。
〈不確定性〉がなければなにもないのであるから、いや〈なにもなさ〉が〈不確定性〉なのであるから――その生成変化のトートロジーのトートロジーにすでにしてそうであるのであるから――やはり私たちは〈アガペー〉を――〈神〉の力を――ヴァイオレットにおくっていたのかもしれないのである。
一瞬の、刹那の、時間ではない時間――存在ではない存在としての〈神〉がヴァイオレットの義手を動かしたのかもしれないのである。
リニアではない、無時間的な〈神〉の力は決して認識することができなかったのかもしれない。認識することができないかもしれない。永遠に思い出せないかもしれない。しかし思い出せないことがあったのかもしれない。認識できないことがあるのかもしれない。
〈エロス〉
←
※神 ⇔ 神と交わるものたち
→
〈アガペー〉
※第13節.神と交わる女たち/ヴァイオレット/から/の「あいしてる」参照
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↕〈外〉
ただの「あいしてる」(一方通行)
〈エロス〉
★ヴァイオレット ⇔ ギルベルト
〈アガペー〉
ただの「あいしてる」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ↕〈外〉
〈エロス〉(一方通行)
→
☆私たち(〈神〉) ヴァイオレット
← 〈無根拠な「あいしてる」〉
(→)
(〈アガペー?〉)
いったいあのとき何が起きたのか?
私たちから〈解放〉されたヴァイオレット。
去ってしまった、切れたつながりの物語から
〈ただの「あいしてる」〉が無責任に放たれる。
〈無根拠な「あいしてる」〉が――。
私たちは彼女を見失う。
喪失から何が生まれるのか?
いや、はじめから?
すでにそこにあったものを〈神〉のちからと
〈アガペー〉と呼ぶのかもしれない。
そうではなかったか?
だからもう一度問うてみよう。
「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」
いま、
ここで、
その力を、
捉えただろうか?
捉えられただろうか?
エロスの滴りのなかに、
〈なにもなさ〉の充溢を、
とほうもないその無根拠を、
あの〈神〉を認識できるだろうか?
だれにもみつけられなかったわたしを、
生まれなかったわたしを、不要なわたしを、
存在しないわたしを、わたしが書かせたものを、
思い出しただろうか?そうであったかもしれない、
原初のあの〈アガペー〉を、始原の〈奇蹟〉を、
わたしたちが〈神〉のちからをおくるときを、
いま気づいたろうか?彼女のあいしてるに、
わたしたちがあの〈神〉であることに、
過去に向かうわたしたちのちからに、
未来に向かう彼女のちからに、
あいしただろうか?彼女を、
見えただろうか?彼女の
腕を動かすそのときを
ゆっくりとしずかに
ヴァイオレットが
はじめて手紙を
〈あいしてる〉
を綴るその
おもざし
のその
とき
を
了
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