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【連載第14回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】
※▼終章.「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最後のスペル
※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版/「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最低限の魔法のスペル/「感動した、泣いた」で終わらせないために/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』/あるいは隠れたる神と奇蹟の映画/検索ワード:批評と考察】のの分割連載版となります。
記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。
▼終章.「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」
を解く最後のスペル
スペルはすでにすべて唱え終えている。
もはや贅言を要しない。
ここから、はじめてみよう。
さて、「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」
この〈謎〉を解くことができたであろうか?
題名に掲げられたこの問いが本論の記述の帰趨によって解かれるのであったとすれば、最終的に姿をあらわしたのは〈神〉であった。
そう、これもまた題名にすでに「隠れたる神と奇蹟の映画」とあったように、この映画の〈隠れた神〉をあらわにすることが答えとなるのである。
Q「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」
A「この映画の世界に現れる神の力によって義手は動かされるから」
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)
ご納得いただけただろうか?
蛇足を続けよう。
新たに問うてみよう。
Q「『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というフィクション/映画の〈外〉にあらわれた〈神〉はデウス・エクス・マキナであろうか?」
もちろんこれは違うだろう。この神に登場願わなくても何ら問題はない。特に解決するべき仕事はないように思われる。
むしろこれはそもそも見当違いの問いだと。こう問うべきだと。
Q「この映画に神はいるのか?」
多義的な疑問文とした。これにはさまざまな答え方がある。
たとえば
A「『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の舞台となる世界は架空のヨーロッパ的世界であるが、その問いは私たちの現実の世界と類比的で明確に答えられない。」
など。
しかしこれ以上はやめよう。この問いも答えも最悪のものだ。
すっかり魔法が解けてしまった。
一度解けたら二度とかからないかもしれない。
しかし、そこからもう一度はじめよう。
こう問うてみよう。
Q「〈神〉はどこに現れたのか?どこにいるのか?」
これなら的を射た問いだ。
A「〈不確定性〉の淡いのなかに」
そうなのだ。
α〈神〉=〈なにもなさ〉=〈カオス〉なのであり
かつ
β〈神〉=〈ただの「あいしてる」〉=〈アガペー〉である。
つまり〈なにもなさ〉の充溢はα(それ以上もそれ以外もなにもないすべてである)と同時にβ(絶えざる〈死〉と〈新生〉の連続、〈未知のもの〉)であったように――〈神〉もまたこのαとβのあるいはβの生成と消滅の〈不確定性〉そのものとしてある。
そして本論は〈ただの「あいしてる」〉が〈愛の成就〉として〈奇蹟〉としてこの映画『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に永遠に留め置かれたさまを描いてきたのだった。
β〈神〉=〈ただの「あいしてる」〉=〈アガペー〉
では〈神〉=〈ただの「あいしてる」〉であるにもかかわらずなぜその〈神〉は〈隠れたる神〉なのだろうか?
ヴァイオレットがギルベルトにただ「あいしてる」と伝えたように――ギルベルトが二度、そう伝えたように――それはそこにあるのではないのか?
もうひとつ。
〈ただの「あいしてる」〉は〈不可能性〉と〈不確定性〉と〈未知のもの〉としての絶えざる生成消滅の靄のなかからその一瞬の姿を捉えることができた。
では〈神〉の存在証明はそれとどう違うのか?
これらは逆に考えたほうがいい。
本来〈ただの「あいしてる」〉が認識可能であることがありえないことなのである。〈奇蹟〉なのである。
だから”この”〈神〉を『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というフィクションに見出すには魔法の力が必要なのである。
つまりヴァイオレットやギルベルトに見た〈ただの「あいしてる」〉と〈神〉は別のものである。
彼女たちは徹頭徹尾「地上的」な存在なのだ。
蛇足ながらあらかじめここに付け加えておくと私たちが追っている”この”〈神〉も「天上的」ではないはずである。
もう少しその理由を述べよう。
こういうことだ。
まず、〈神〉=〈ただの「あいしてる」〉であるにしても、それら――〈神〉と〈ただの「あいしてる」〉――を「図」としたとき、それが描かれる「地」の場所が違う。
そして何よりそれを描くもの――作者――が違うのである。
〈ただの「あいしてる」〉がフィクション内のキャラクター――これが一方の作者――の〈エロス〉と〈アガペー〉として描かれ、ヴァイオレットからこの現実の私たちに贈られたものであったのにたいして、〈神〉は逆に現実の私たち――別の作者――の方からヴァイオレットに贈らなければならない。
これが、β〈神〉=〈ただの「あいしてる」〉=〈アガペー〉の意味である。
この三位一体においての〈アガペー〉が〈神〉と〈ただの「あいしてる」〉を媒介する。
さらにそれら――〈神〉と〈ただの「あいしてる」〉――の「図」が描かれるフィクションと現実という次元を異にする「地」をも媒介する〈外〉からの力が〈アガペー〉と呼ぶものである。
この現実とフィクションを交感させるもの――交感自体が〈アガペー〉だ。
〈エロス〉をヴァイオレットとギルベルトが互いに決して手放さなかったように――現実からヴァイオレットへ呼び水――愛撫――はそこにあり続けるだろう。
先にこう述べたとおりである。
……〈神〉の代わりに私たちの現実には、原初の「あいしてる」を失った骸である私たちを「活性化させ」る「外からの力」が、ヴァイオレットからの「あいしてる」がおくられたのだ。……
〈エロス〉の魅惑に徹底して耽溺するヴァイオレットとギルベルトがそれ――前戯――を突き抜けた先に出逢ったのが〈外〉からの力として〈アガペー〉という〈未知のもの〉――〈神〉なのであった。
それは同時に私たちが本作を〈エロス〉的に探究した先に、ヴァイオレットからの「あいしてる」という〈未知のもの〉――〈アガペー〉に出逢うということと軌を一にするという、これまた〈奇蹟〉的な出来事なのであった。
本論は件の問いに答えること、〈エロス〉によって――私たちの現実が〈アガペー〉が射し込む〈外〉においてフィクションと交感する――その地平を開く魔法となるのだった。
先にこう述べていた。
……私たちにフィクションと〈アガペー〉が等根源的に〈外〉となったように、キャラクターの〈外〉の〈アガペー〉に何かもっと別のものが開かれるのではないかという希望を語ってみたいのである。
”※私たち現実にフィクションとアガペーが開かれたのだから対応してフィクションにはアガペーと現実が開かれると即断しないということである。あるいはフィクションに開かれた現実とは何か?別の名で現れるものとは何かということである。”
私たちにおくられたフィクションからの〈アガペー〉という〈外〉からの力にたいして、キャラクターにおくられる〈外〉からの力としての〈アガペー〉が「フィクションに開かれた現実」、「別の名で現れるもの」である〈神〉ということである。
……〈神〉=〈ただの「あいしてる」〉であるにしても、それら――〈神〉と〈ただの「あいしてる」〉――を「図」としたとき、それが描かれる「地」の場所が違う。
そして何よりそれを描くもの――作者――が違うのである。
つまりこれは、ヴァイオレットから現実の私たちにおくられる〈ただの「あいしてる」〉はフィクションという「地」があるのに対し、同じ「図」となる私たちからヴァイオレットにおくられるかもしれない〈神〉は現実にその場所を持たないということだ。
私たちの現実の世界――「地」――には〈神〉の座がない。
単純化していえば、私たちは〈ただの「あいしてる」〉を受動的に受け取ってしまえばいいが、〈神〉はこちらから能動的にヴァイオレットにおくらなければならないのである。
おくるためにはそれをまず認識しなければならない。
それができないとき――「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」という問いに答えはない。いや、そもそも無意味な問いとなる。
この私たちとヴァイオレットの関係性はヴァイオレットとギルベルトの関係性と類比的である。
どのような関係性か?もちろん〈エロス〉と〈アガペー〉のである。
……もしそんなギルベルトの〈エロス〉が幼いヴァイオレットからの〈アガペー〉の呼びかけにこたえたものだったとすれば――。
もしヴァイオレットのイノセントな狂信的〈エロス〉がギルベルトの背徳的な〈エロス〉とは別の、おしみない〈アガペー〉の力で生まれていたのだとすれば――。
これはふたりの一方通行な〈エロス〉の始原に〈アガペー〉があったのではないか――相手からおくられた〈アガペー〉によってこそ〈エロス〉は引き出されたのではないか――という〈なにもなさ〉の〈不確定性〉の〈未知のもの〉――この新たな胎動の可能性自体の開闢を――どこまでも「であったかもしれない」のまま開いている。
幾重もの〈不確定性〉から〈アガペー〉を――〈アガペー〉から絶えざる〈未知のもの〉を――〈未知のもの〉から〈神〉を――〈神〉から〈外〉の力を――〈外〉の力から――。
この生成自体を生み出し続ける循環はトートロジーでありながら絶えず〈未知のもの〉に生成変化するトートロジーのトートロジーなのである。
イコール〈=〉で結ばれる両項は別のものでありながら同じものである。同じものは同時に別のもとなる。
絶対矛盾的自己同一自体の絶えざる累進の動的構造から〈アガペー〉を剔抉すること、それを〈可能〉とする試みもまた――〈アガペー〉自身であるということ――。
ヴァイオレットとギルベルトのあったかもしれない原初の〈アガペー〉という〈なにもなさ〉を私たちとヴァイオレットの関係性に移しかえてみるのであった。
β〈神〉=〈ただの「あいしてる」〉=〈アガペー〉なのだから、
ヴァイオレットが〈アガペー〉として私たちに〈ただの「あいしてる」〉をおくるとき――それは私たちから〈アガペー〉としてヴァイオレットに〈神〉を、つまり〈義手を動かす力〉をおくっていたのではないかということである。
これがヴァイオレットとギルベルトと類比的なヴァイオレットと私たちの関係性である。
この関係性で重要なことは、ヴァイオレットとギルベルトの原初の〈アガペー〉はそれが「あったかもしれない」かどうかは〈不確定〉であることである。
そして〈原初〉であるとはリニアな時間ではないことを意味する。
それはたとえば現在起きたことが遡行的に過去ですでに「そうであった」ということでもあるし、未来にそうなることが現在においても「そうであった」ということでもある。
つまりこういうことだ。
ヴァイオレットの義手を動かす〈神〉の力は、彼女が映画の最後に「あいしてる」を私たちにおくるときに、すでに私たちから原初に彼女へ「おくられていた」のである。
そして私たちが〈神〉の力を原初においておくるときにすでに私たちはヴァイオレットから「あいしてる」をおくられていたのである。
なぜならあの生成変化するトートロジーのトートロジーは〈無時間的〉だからである。
それは常にすでになにものでもないが同時につねにすでになにかでもあるからである。
しかし問題はこういうものであった。
……ヴァイオレットから現実の私たちにおくられる〈ただの「あいしてる」〉はフィクションという「地」があるのに対し、同じ「図」となる私たちからヴァイオレットにおくられるかもしれない〈神〉は現実にその場所を持たないということだ。
これがβ〈神〉=〈ただの「あいしてる」〉=〈アガペー〉であるにもかかわらず、〈ただの「あいしてる」〉に比して〈神の存在証明〉が難しい理由である。
ヴァイオレットからおくられた〈ただの「あいしてる」〉が永遠にフィクションとしてとどまるのにたいして、私たちから彼女におくられる〈神〉の力はどこにも存在することができないのであった。
このヴァイオレットと私たちの非対称性が〈隠れたる神〉の存在証明を魔法による〈奇蹟〉とする根拠である。
この「どこにも存在することができない」とは通常のニュートン的な絶対空間と絶対時間、感性の直観形式においてである。(※つまり私たちが感じるごく一般的な空間と時間のなかではどこにも、ということ。)
〈神〉の居場所が絶えざる生成消滅と絶対矛盾的自己同一の無限運動と無時間なのであるから当然であろう。
ではこの存在することのできない〈神〉はヴァイオレットへおくることはできないのか?
そうではない。
β〈神〉=〈ただの「あいしてる」〉=〈アガペー〉なのであった。
そう、〈神〉とは〈ただの「あいしてる」〉であること――これを忘れてはならない。
「第12節.ヴァイオレットの凍りついた『あいしてる』」ではこう述べた。
エンドクレジットの直前のヴァイオレットの暗闇のなかの歩み。
そこにヴァイオレットからの?ヴァイオレットへの?「あいしてる」がある。
”ここからは一人称で書くことしかできないはずだ。
一人称の私はヴァイオレットへの「あいしてる」を云うことに戸惑わざるを得ない。
ではヴァイオレットからの「あいしてる」をどのように受け取るべきか?
いかなる意味においてもヴァイオレットは一人称の私に「あいしてる」を云わない。とすれば最後にこの映画はまったくのノンセンスを提示して終わったのか?(※ちなみにナンセンスでない理由は特にない。)
ある意味ではそうである。だから、「もしそうではないとしたら?」が生まれる。
まったくのノンセンスでないとはどういうことか?
この問いが誘いである。
〈エロス〉である。
一人称の私にとっての。
そして狂気への誘いでもある。”
いかなる意味でもノンセンスだったはずのヴァイオレットからの「あいしてる」を受け取った私たちはいまこそ、「あいしてる」を――〈外〉からの力である〈神〉を――「もしそうでないとしたら?」の問いが開く「どこにも存在できない」場所としての〈ここ〉からそれを――はじめなければならない。
ヴァイオレットへ――。
再び狂気のなかへ――。
わたしの〈エロス〉から――。
◆
(連載第15回【承前 終章.「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」
を解く最後のスペル】に続く)
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