たけやさおだけは止まらない
た〜けや〜さおだけ〜
何度もこの歌を耳にしたことはあったものの、物干し竿は間に合っているし、こんな鉄の棒が壊れることもそうそうないもので。レトロな声質に故郷の田舎を思い描きつつ、ただ心地のよいバックミュージックとして聞き流すだけだった。まぁ私はそこそこの都会生まれなのでそれはハリボテの故郷だ。
我が家はここ最近引っ越しをした。自宅はよくある賃貸のマンションから和室だらけの古い二階建ての一軒家になった。古い一軒家にどうしても住みたいと私がずっと熱望していたからである。欲を言えば田畑に囲まれた自然いっぱいの風景の中にポツンとあるような古民家がよかった。が、毎日都内へ通勤する夫のこともあり、便利か不便かでいえば不便よりの少し廃れた駅近くの一軒家に住むことになった。
新しく我が家となったこの家はもともと元大工さんが自らの家として建てたものらしく、築年数こそ(かなり)経っているがとても綺麗で、まさに痒いところに手が届くといったつくりになっている。天井は各部屋ごとにさまざまな木が使われていて、照明もそのデザインに合わせた木で作られている。押入れにはまるで隠し扉のような細かな収納スペースもある。庭が正面となる和室には間仕切りに格子状の障子があり、その障子は左右に開くのはもちろん下半分だけ開けることができる。そうすることで外からは見えないがあたたかい光が足元から直接部屋に入り込む。私はそこでぬくぬくと横になるのがとても好きだ。
玄関の先には謎の広いスペースがあり、そこは私のギャラリースペースにしている。先日の写真展で展示したA2サイズの祖母の遺骨の写真もここに飾っている。遺骨の写真を玄関側に飾るのは風水的にはどうなんだろうと一瞬迷ったが、木の壁になかなかマッチしていて気に入っている。最終的にはここにベンチ兼本棚をおきお気に入りの写真集や本たちを並べる。その横にもじゃもじゃっとした大型の観葉植物なんか置いちゃってリラックススペースにするのが理想だ。そのベンチ兼本棚をできれば自分で作りたい、いや作ろうと考えている。私はこの家をとても気に入っているし、どうせだったらちゃんとしたものが作りたい。ホームセンターで木はカットしてくれるけれど、できれば自分で木をカットするところからやりたい。ということでちょっと本格的なDIY教室みたいな場所を探しているところだ。
手付かずの場所はまだまだある。庭もそのうちのひとつだ。引っ越してすぐに雑草こそ抜き切ったものの、そのあとは完全に放置してしまっている。花も植えたいし野菜も植えたい!と家庭菜園の本を図書館で借りてきては妄想だけがどんどんと膨らんでいるが、抜いたはずの雑草が再び生えはじめたこの庭には、いまだ引っ越し前から使っていた物干し台だけがぽつんと立っている。
そうそう物干し。話が逸れてしまったが、せっかく二階建ての家に引っ越したので、二階のベランダにも物干し竿があったらいいなと思っていたのだ。二階のベランダは狭いが小雨程度は凌げる屋根があるし、洗濯を干すスペースは多いにこしたことはない。そんなとき聞こえてきた竿竹ソング。しっかり耳を傾けてみると2本で1,000円となんとお買い得!
ところでこのような歌や音楽を流しながらトラックで町を回送し、ものを販売する商売は意外といろいろある。ラッパの音が特徴的なお豆腐屋さん、焼き芋、わらび餅。私の中では食べものが多いイメージだったが、思い出してみると灯油だったり網戸の張り替え、自転車の回収なんかもあったような。
しかしこれらの音が聞こえてきて例えちょっといいなと思ったとしても家を出て買いに行くまでにはなかなかいたらない。実際にこの歌が聞こえてきたときも竿竹を買うことはできなかった。
なぜかって、だいたい毎日何時にくるということがわかっていればまだしも、突然その歌が聞こえてきたって家にいるときの私はほとんどの確立でスッピンの部屋着姿だ。部屋着姿といっても舐めてもらってはいけない。スッピンはまぁ百歩譲っていいとしても、度の強いメガネはまるでゴハンですよのキャラクターのごとく目と鼻の間にあるが定位置で、お辞儀とともに100%床に落ちる仕様。お腹が冷えるのはよくないとしっかりめにパンツインもしていれば、寝癖はまるでモーツァルトである。そんな姿のおばさんがその音を聞いて慌てて外へ飛び出していけるだろうか。
さすがの私もそんな格好で外を出歩くには躊躇する。かといって髪を梳かしズボンを履き替える頃にはトラックは過ぎ去ってしまうのだ。それに奇跡的に着替えを済ませていたとしても、走り行くトラックに向かって「すいませーん!買いますー!」とお財布片手に手を振り走っていくのもどうにも勇気がいる。
それにしてもいいよねぇ移動販売。焼き芋だってお豆腐だって、スーパーで買うより絶対美味しい。買ったことはないけれどわかる、確信している。一度でも買うことができればそのハードルはグンと下がるだろう、おばさんになると図太くなる言うがどうやらまだ私は未熟者らしい。
さて、ここまで読んでくれた人はもうおわかりだろうが、私は自然と動物を愛し、田舎に憧れを強くもつ。口癖は「ベーシックな暮らしがしたい」である。しかし(何度も言うと自慢のようになるが)私はそこそこの都会生まれ都会育ちである。そんな私が牧場で働きはじめ自分がいかに温室のようなところにいたかを痛感している。
牧場の仕事は極めてベーシックな、労働というよりは生活に近いことをおこなう。言葉で表せば掃除、食事(牛の)、洗濯、掃除だ。まさに生活。しかし「生活」といっても私にはあまり経験のない「生活」であった。
例えば掃除。牛舎を竹箒で掃き掃除をするのだが、情けないことに竹箒を使い慣れていない私はいささか苦戦をし、手に豆までできた。牧場の先輩が優しく教えてくれたが、どうやら力を入れてしまってはうまくいかないらしい。
35年間マンション暮らしだった私。管理費を支払うことで共用部の掃除は管理をする人がやってくれていたし、マンションの狭い玄関で竹箒を使う機会などはない。学校の掃除の時間に使うのは長細い形をした毛の短い(名前を調べたが聞き馴染みがなかった)ヤツだったし、下駄箱は土間箒だった記憶がある。
対して田舎で暮らす人々にとって自宅に竹箒があることは当たり前で、それを使うことも身体に染み付いている。私にとって竹箒は魔女の宅急便の世界のものだ。日々の生活の中には馴染みがなかったとはいえ、もう立派なオトナなはずの自分がこんなこともうまくできないのかと落ち込んだ。
また、牧場の事務所までの道は少し林を登った場所にある。距離こそ短いがその道がとてつもなく悪い。避けきれないほどの大きな穴がいくつもあり泥水が常に溜まっている。仕方がないので車の片足を突っ込み進むのだが車体は右に左に大きく揺れる。今まで綺麗に舗装された道路しか通ってきていない私は、そんな道なき道を走るたび肝を冷やす。
おまけに敷地内を走る軽トラにはナビどころかバックモニターもなく、いたるところに人によく懐いたそれはそれは可愛い猫たちがトラックを囲む。そんな凸凹の道を乗り慣れない軽トラでバックするだけでも怖いというのに、猫という絶対に轢いてはならないハードルまであるのだ。しかしこの地域の人はそんなことは当たり前と言わんばかりに澄ました顔でハンドルを回す。
なにかが壊れれば新しいものを買うのではなく直す。汚れたら洗い、なかったらあるもので代用するか、作る。そして人々はだいたいのことはなんとかなる、という強い精神力を持っている。そこにはマニュアルもなければ取り扱い説明書なんてものはなく、暮らしの知恵が彼らの生活を豊かに支えている。そんな生活の時間の流れに私はやはり、憧れるのだ。
便利な世の中は素晴らしいし、発展をすることで得ることはたくさんある。その反面、一昔前であれば当たり前にやっていたことができなくなってしまったなんていうこともまたあるんだろう。
なんでも買ってしまえばたしかに早く、もしかしたら買った方が安いかもしれない。「タイムイズマネー」というが、その言葉は時間を短縮するためだけのものではなく、忙しい現代、時間をかけることができるという豊かさもあるのだと35歳になりはじめて気付く。そしてやろうと思ったら意外になんでもできるんだということを実感するべくの「ベンチ兼本棚」である。
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