
寝かしつけしながら考えたこと。人生最後の瞬間にしたいこと
今日も寝かしつけしていた。なんてコスパ・タイパが悪いんだと思う。ベッドに入ってから寝かしつけが終わるまで1.5時間かかった。「喉乾いた」、「トントンして」、「おもっちゃ持ってきたい」と、リクエストが永遠と繰り返され、目が細くなったらそろそろ寝るかなと期待が膨らみ、話だしたらまた目が覚めてきたとがっかりし、一喜一憂を繰り返す。この1.5時間があれば、たまっている雑務もできただろうし、好きなYouTubeでも見られただろうと思うと、子育てはなんてコスパ・タイパが悪いのだと思う。
私は男性としては子育てにコミットしてきたほうだと思う。育休を半年とり、妻が職場復帰して共働きとなった後は、育児・家事のタスクを全部書き出し、妻と私で半々になるように分担し、今は妻の海外留学に同伴し、三食、含む娘の弁当を作りながら、週半分は保育園が15時に終わった後娘と公園に行き、自分の父親世代と比べたら相当な時間を子育て、そして家事に割いていると思う。寝かしつけは妻の担当だが、妻の学校がある日は私の担当だ。今日はその日だった。もちろん子育てで楽しい瞬間瞬間はあるが、寝かしつけ、砂場遊び、ブロック遊び、保育園への送迎、風呂入れ、トイレ補助などなどをしている最中、なんでこんなことをしているんだろうと思う瞬間は今でもたびたびある。これまでの世代の女性が担ってきたことを思うと贅沢な願いだなと思うが、もっとやりたい仕事ができたのでは、とか、旅行や趣味を満喫できたのではと、包み隠さず言うと思うことがある(先日もアメリカ自然史博物館に行ったが、娘の公園行きたいコールがすぐに始まり、30分もせずに出てきてしまった。もっとじっくり見たかった)。今風に言うと、子育てはコスパ・タイパが悪いなと、情けない話だが思ってしまう。
寝かしつけしている最中、電気の消えた部屋の中、娘に乗っかられながら中空を見つめているとどうでも良い問いが浮かんでくる。「人生、残りわずかだと言われたらな何をしたいか」。友人の不幸な話やニュースを見ていると自分の身に何が起きるかわからない。人生最後の瞬間は何をしたいか、、、もしや、、、娘の寝かしつけがしたいかもと思ってくる。3歳の娘の顔を見ながら、どうでも良い話を聞いて、背中をトントンする、これこそ最も幸せな瞬間であり、人生の最後の瞬間にしていたいことかもしれない。そして、仕事やYouTubeを見るなど論外だ。今、コスパ・タイパが良いと考えていることなんて、人生最後の瞬間にまったくしたくない。
では、なんで人生で最も幸せなことをしているのに、その瞬間はとっても煩わしいと感じているのか、わからなくなる。コスパ・タイパは、投資の話だ。今のコスト、タイムを投資して将来のリターン(お金と地位とか名誉)を得る。人生最後の日になったら、リターンは戻ってこないので、コスパ・タイパが良い投資をしたいと考えないのは当たり前だ。では、経済学的に言うと、将来の効用(幸せ)につながる投資でなく、現在の効用に直結する消費がしたいのか?YouTubeを見て時間をつぶすのは消費で、その瞬間は楽しい。でも、人生最後の日に消費もしたくない。。。寝かしつけや子育ては、何なのだ?投資でもないし、消費でもない。今の効用は高くないし、将来の効用はもしかしたら高いかもしれないが(老後子どもがいると幸せ的な)、そんなの先すぎて不確実性も高いし、あんまり現実味がない。
夫として子育てにコミットして思うのは、どうしてもこれまでの男性の働き方、そしてその根底にある価値観の重力に引っ張られ、子育てはコスパ・タイパが悪く、しかも消費としての効用も低く見えてしまう。ただし、今日枕元で感じたように、仕事や趣味を超えた、究極的な幸せな体験を意識せずともしているという実感がある。男性に一般化するのは危ういと思うが、男性の育児参加が進まない根本原因もここにあると思う。子育てはコスパ・タイパが悪く、しかも消費としての効用も低いように見えてしまうのだ。ただし、一歩引くと、なぜかとても尊い。「寝かしつけは、している瞬間は煩わしいが、なぜ人生最後の瞬間にしたいことなのか」という謎が解ければ、男性の子育てへの参加が増えるのではと、ウトウト寝かしつけしながらしながら思いました。