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本来、日本人は海王星的な民族であった
歳を重ねるとはすごいことだと思うのです。人間としての体験の積み重ねが「何かとんでもない境地」に人を連れていく。頭の知識よりも何よりも、当たり前に生きること以上に尊いことはないのだと思います。占星術は決して簡単な学問とは言えず、私も未だわからないことだらけです。
それなのに、占星術を知らない(であろう)諸先輩方が、まるで占星術の大家のような発言をされるのを見聞きしては驚くことがあります。(あらゆる物事の本質に辿り着いておられるということです)本当に大事なことは何か難しい学問を理解していく先にあるのではなく、当たり前に人生を生きることの中にあるのですね。
たとえば、心理学者の加藤諦三さんが「感受性を取り戻すことです」と相談者にアドバイスし、「好き嫌いは大事です。好き嫌いの感覚を徹底的に取り戻すことです。そこから始まります」といった趣旨のことをお話しされていて、度肝を抜かれました。
これはそのまま金星の働きです。金星がフリーズしたまま育っていくと、やがて人生の理不尽さや厳しさに押しつぶされることになります。そんな状態の時は頭の理解なんて役に立たないのです。自分が感じていることをそのまま認め、自分を大事にする感覚を育て直すことから始めるしかない。
短い時間の中で、相談者の状態を的確に捉えてアドバイスする。きっと、月の次に水星があるのではなく、実は月の次に金星があることも、体感として理解されているのでしょう。どんな学問であれ、突き詰めると同じ頂にたどり着くようにできているのかもしれません。
また、92歳で亡くなられた作家の渡辺京二さんが、パートナーであった石牟礼道子さんのことを「あの人は妖精のような人ですよ。芸術家であり幻を観る人。彼女の持つビジョンの力が現実を透過して、現実の遥か彼方にあるものを捉える。彼女は現実を超えたものを言語化するアーティストなのだ」と表現されていました。
石牟礼道子さんは太陽魚座なのです。なんという端的で的確な魚座と海王星についての表現であろうかと、驚嘆します。このような諸先輩方に占星術はもはや不要なのだと思いますw海王星の力はビジョンの力。全くその通りです。海王星の根底にあるものは、三次元的知覚の制限が融解したところからアクセスできるビジョンであり、この世の奥にあるもう一つのリアルです。そっちの方が本当の世界なのかもしれませんよね。
年齢を重ねた方々が獲得している生きた知恵や感受性はもっともっと活かされる場所があると思うのです。それが必要とされる場があるはずです。かつての日本社会の中には「その場」が存在していました。と言うのも、本来の日本人を知れば知るほど、実に海王星的な民族であったわけなのです。
海王星は難しい天体であると言われます。海王星の使い方を間違えると、とんでもない狂気の世界に入り込むからです。それは自分の軸をあけ渡すか、自分の軸を保ったままでいるのかの違いです。自分をあけ渡すといわゆる憑依状態になります。狐憑きという言葉がありますが、まさにそれです。
自分をあけ渡すこと=他者と同化することが愛だと勘違いしてしまう。これは多かれ少なかれ、誰でもやってしまうことだと思いますが、とても危険なことです。それは愛なんかじゃないのです。なぜ、かつては当たり前にできていたことが、こんなにも難しいことになってしまったのか。
そこには罪悪感と無価値感が存在します。人間が最も感じたくないもののひとつが無価値感です。自分は価値のない人間であるーそれを感じなくて済むのなら、なんだってやってしまうのが自我です。それくらい自己価値を感じていたいのが人間であり、また同時に「私たちは一人残らず自分に価値を感じて然るべき」なのです。自分の存在自体が最高の価値であると感じていいのです。
人を助けることができる私、人のために生きることができる優しい私。そう感じていられる状態を無意識的に(不自然に)作り出すことで、無価値感と罪悪感を埋め合わせて生きる。そうしないと自分を保つことができないほど底なしの悲しみと虚しさが存在している社会。これが集合意識としての海王星の負の側面を強化していったのだと思います。
現代に蔓延する心の病や認知症や引きこもり・・・その多くはここに原因があるように思われてなりません。つまり「自分の存在価値や存在意義、生きる意味や喜びが見出せないこと」が原因です。敢えて言いますが、それは社会と時代のせいでもあります。だから、どなた様も自分を責める必要はありません。
本来は大変に美しい星であり、日本人に幸福感を与えていたであろう海王星が怖い星になっていった所以は、ひとつは明治以降の時代背景にあると思っています。海王星を健全に使えるだけの土壌や私たちの自然な情が奪われてしまったからです。そして、病的に無価値感を埋め合わせずにはいられないほど、私たち一人ひとりが「存在の価値」を奪われてしまったからです。渡辺京二さんの著書「逝きし世の面影」には驚くような「かつての日本」が描かれています。
江戸末期から明治にかけて、日本を訪れた外国人たちの目から見た日本。日本人が描いた日本人の姿ではなく、客観性を持った外国人の視点で表現された日本が描かれています。そこには一様に「陽気で礼儀正しく、幸福感に満ち溢れた日本人」がいます。子どもたちは無条件に慈しまれ大切にされ、女性は「太陽」のような存在です。お年寄りは自然に尊敬されて存在しています。
その根底には日本人の特異な精神性があるのですが、加えて、優れた循環型の社会構造がありました。水を汚すことは「打首に値する罪」であり、子どもからお年寄りまで、全ての存在が繋がりを持って、誰もが生きる意味と価値と喜びを感じ合えるような「仕組みとしての社会」がありました。
少なくとも江戸時代まで(あるいは明治の初めまで)は、今とは全く異なる日本が存在していたのです。江戸時代と明治時代の繋ぎ目には空白の歴史が存在しているとも言われます。このあたりを発端として、本来の日本は奪われていったのでしょう。GHQによって、本来の日本人の在り方を示すような8000冊以上の書物が根こそぎ亡きものにされた、とも言われます。
奪われたものを端的に言うと「生産性や経済至上主義とは全く異なる価値観」であり「日本人の文化と精神性」です。それは「大自然の中で生かされ、お互いが繋がりあって存在している絶対的安心感と敬意」です。外国人たちは「古き日本は妖精の住まう美しき国、真珠のように美しい国」だと表現しています。
ネットに素敵な表現があったのでお借りします。
江戸時代の日本人にとって、効率よりも人間が生きものらしく生きる事が大事であった。肉体労働も労苦だけでは無く、一同で唄って力を合わせ、時間がかかっても身体に無理しないようにやる。 皆で歌を唄うことで働く楽しさを少しでも加えるという文化的知恵。そこには精神をどう健康に保つかの文化的知恵があった。
「高齢者は集団自決を」という発言が波紋を呼びましたが、成田さんがそう言わざるを得ないような社会構造が出来上がってしまったことに、本当の原因が存在していると思います。本来の日本人であれば、そのような考え方自体が生まれようもなかったはず、なのです。
子どもたちは国の宝であるし、ご老人たちは知恵の塊であり尊敬すべき存在であったからです。自然界に存在しているものは全て必要であり、必ず役に立っているように、人間も同じです。自分は孤独で何の役にも立っていない、価値のない人間であるーーそう感じてしまう人が決して生まれないための社会が、かつては確かに存在していたのです。
社会構造や物質面でいくら奪われようとも、元々、存在していた精神性は奪われることはありません。だから、本来の日本を取り戻すことはできるはずです。少なくとも、どなた様も「私には価値がない」と思う必要は全くありません。無価値感や孤独感を埋め合わせるために、他者と自分を同一視して、無理に役に立とうとしなくてもいいのです。
みんなが自然な情の発露を取り戻し、健全な自己への誇りを取り戻していくことが、何よりの社会貢献です。今、苦しいのなら何ら生産性に加担しなくてもいいのです!笑顔をくれる人って天使です。気持ちの良い挨拶を投げかけてくれる人は神です。ご機嫌でいてくれたら、それだけで最高の社会貢献なのです。
個が個を保ったまま、自然と一体化して他者と繋がる。生活自体が大地と海と空の歌を奏でる生命への讃歌であった・・・日本は元々、そのような海王星的な国であったのですから。能力や生産性があるから価値があるのではありません。存在自体に価値があることを知っていたのが日本人です。
それを取り戻していく。その先にきっと、心の病や認知症や引きこもりといった増え続ける問題が、違う形で出口を見つけていくでしょう。そして、日本は幸福度の高い国として、再生していけると思っています。私たちは大自然と命を愛でるアーティストとしてのDNAを持っているのです。大自然や森羅万象と当たり前に感応し合う感性。
だからこそ、真摯な職人になれるのであり、飛び抜けた技術と労働力を生み出せたのでしょう。きっと、その原点は役に立とうとか功名心とか経済とか、そんなことじゃないと思うのです。もっと人間としての自然な感情や純粋さが存在しているはずです。
寂しい時、苦しい時、誰でも樹木に話しかけたことがあるだろう。それが全ての基本、原点であるーー渡辺京二