美容とミソジニー

近年「ミソジニー」という言葉をよく耳にします。「三十路にぃ」ではございませんよ。このミソジニー、きちんと追ってゆくと、わたし自身の美容への熱量と方向性の変化について、深く説明できる気がして。今日は、そのへんについて、ちょっと書いてみたいと思います。

とりあえず、ミソジニーとは?

説明するのもアレなので、Wikipedia先生に伺いましょう。参照元を貼り付けておきますね。

”ミソジニー. Wikipedia.https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BD%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%83%BC, (参照 2020-07-15).

一言で言うならば、“女性嫌悪”。女性蔑視も含まれるみたい。

与えられた美意識

で、ですよ。美容業界における基準…、わかりやすく美容体重で考えてみますかね。アレって、何なんでしょ?あの計算方法、どこからきたのかな?とか、考えたことはありますか?とにかく標準体重よりも痩せていることをよしとしている。でもって、モデル体重なんて言ったら、更に更に痩せていることをよしとしている。もうね、とりあえず女性が痩せていることを歴史上初めてよし!としちゃったヤツ、出てこい!誰なんですかー?!という気持ちになるわけで。あ、でも、ごめんなさい。わたし、健康的でありたいですし、普通に衣類を着こなしたいの。そんなこと言ってみても、肥えるつもりは1mm もございませんが。わざわざ痩せるつもりもないのだけども、あしからず。あくまでも、わかりやすいお話のひとつ。あくまでも、例えばです。そんな感じで、とりあえず美容というか、与えられた美意識というものを推測するに、わたしたちアラフィフちゃんがこの世に産まれる前の前から拡がりつつあったものなのでしょうね。石器から化粧用具が発掘されるぐらいの大昔のお話で。これまた、わかりやすく探してみると、わたしが愛してやまないマリリン・モンローさん。うん、大好き。彼女は、1950年代のセックスシンボルなんでしょ?世の中ほぼ全員、わーお!となっちゃう憧れの女性。そんなセックスシンボル…“女性の性的・経済的解放の増加を反映したもの”

”セックスシンボル. Wikipedia. https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB, (参照 2020-07-15)

.…とされているみたいだけど。性的に解放というより、性的に定義され始めたと感じちゃいます。この時代はまだ痩せ推奨ではないけれど、当然のことながら世の中の女性が全てこうあるわけでもなく。ぼんきゅっぼーん!な魅力によって人気を得る (得た) 人物。「キレイ (セクシー) な女性、最高!」みたいなメディアによるセクシー押しは、このあたりから加熱していったのかしら?ね、と勝手に想像したりしている次第でございます。

「愛されホニャララになる」

昔々、各雑誌で頻繁に見かけた流行りのタイトルですよね。愛されボディ、愛されメイク、愛されヘア、愛されコーデ…、わーお、お腹いっぱい。愛され過ぎ。何故に常に受け身、おい?というお話で。別にいいのよ、愛されるって。素敵よ、素敵ぃー (棒読み)。ま、わたしだって愛されてみたい、普通にさ。だけどね、全国津々浦々の若い女性も見るような雑誌で、愛されボディ=とびきりキレイなモデルちゃんの写真バーン!!!なんて載せちゃうのは「それ以外は愛されませーん!」なーんて、ネガティブな催眠術のようだった気がするの。毎月毎月安くもない雑誌を買って、夢を見て。結果、(このままじゃ無理…) なんて無意識の暗示にかかっちゃいそうで怖くない?数年前だったかな?アーケードにある普通の本屋さん。造作がキレイなヌードの男女が表紙で、愛されるセックス…と、大きな文字がタイトルの雑誌が陳列されていたんですよね。歩きながら瞳の端に何気なく入り込んで、立ち止まって、強烈に吐きそうになりました (ちょっと病的)。 そのとき、ばばばばばばーっと考えてしまったんです、唐突に。で、わわわ!と夢から覚めたように恐ろしくなって、あらゆる雑誌の購読をやめました。当時、同じく主流だった “女子力” なぞという言葉も、今でこそ少し問題視され始めたみたいだけど。それでも、わたしだって、皆と一緒に女子力を磨きたかったですよ。どう考えたって、皆と同じがイイ、安心するに決まっているじゃないですか。内心は、女子定義メディアにぞわぞわと違和感を感じつつも、時代に逆らってまで少数派を生き抜いていくほどメンタルなんて強くないですから。ま、世の中の女性ほぼほぼ全員そういうわけですから、「愛される自分磨き」がこれほどまでの大きなマーケットに成長したわけですし。そうこう時代に流されているうちに、ある日突然プチっと切れて拒絶に入る、わたしのように。そういう女性、最近特に増えたなと感じています。それでも、今現在、なう、一般標準的に…、ううん、それ以上に!キレイじゃなければ全てがダメだと思い込んでしまっている女性、まだまだ一定数いますよね。最近、若年層に美容整形が大ブームなのは、女子定義メディアの後遺症だったりして、とも思ったり。

魔女にはなりたくない

それにしても、ですよ。結局、わたしは美容業界で救われた人なんですよ。こんなものを書いている今でさえ、救われたと心から思っています。「もっとキレイだったら…」「もっと可愛かったら…」人生が絶対によくなっていたのにと信じていて (他責の過去形)。全ての不都合を納得いかない容姿のせいにしていたんでしょうね。そう気がついた今さえも、たまーに病的にそう思います。けれども、わたしにとって、美容に携わったことは人生の分岐点だったことには間違いないのです。当時のビジネス用SNSアカウントには、こんな文面書いちゃって。

キレイになると自信がつく
自信がつくと自分が変わる
自分が変わると世界が変わる
.
世界が変わるエステを始めてみませんか?

世界が変わるらしいですよ。やん、恥ずかしい。でも、本気の本気で思っていたの。信じていました。わたしが変われたように、たくさんの女性のお顔も心も晴れやかになれるお手伝いができる!善いことをしているつもり満々、最高過ぎる仕事だわって。…けどね、続けていくうちにクエスチョンが増え過ぎちゃって、現在のスタイルに至るわけですが。そもそも、“女らしさ” って何よ?お肌がキレイでシワもシミもなく、ピカピカのツヤツヤじゃなきゃ女らしくないの?色々色々もやもやもやもや、違和感だらけ。最初に考え始めたきっかけはフランチャイズシステムへの疑問だったのかな、たぶん。そんでもって、なーんせ考えるのが苦じゃない?いいえ、苦ですよ。そうじゃなくて。考え始めると結論が出るまで止められない面倒くさーい性格。ビジネスの在り方への疑問なんかは秒で飛び越えたら、壮大過ぎる価値観まで辿り着いちゃって、答えの出ない思案の日々。過去のわたしは、美容のおかげでコンプレックスを克服したけれど、昔のわたしと同じように苦しむ女性は誰の何のせいでそうなったの?化粧品や美しさで笑顔になれる女性と、キレイなのに必要以上に追い求めて笑顔になれない女性と。そういうコンプレックスは何のせいなの?そんなことばかり考えていたら、もしかしたら企業広告や商戦・女子定義メディアの影響かもしれない?と。そう疑い始めてしまったら、続けていくのは苦しい。このままエステをしているだけじゃダメなんだもの。美容広告は欲しくなるキャッチコピー、コンプレックスを刺激する販売。大きなビジネスの仕組みを続けていくということは、コンプレックスを攻撃し続けなきゃいけない魔女になってしまう。善いことをしていたつもりが加害者かもしれないことに気がついてしまって。そんな思いを、以前よりブログやTwitter、note 等々、そのときの脳内をまとめたものをアウトプットしつつ。違和感の正体がビジネスだけの問題なのか、わたし個人の問題なのか、はたまた女性全体のメンタルな問題なのか。結局、わたしには結論がつけられず、だらだらとインプット&アウトプット、思案の日々。そんな中、ミソジニーという言葉に出会い、#MeToo が始まり、今回違和感がすとーんと整理できちゃったんです。これはリアルな、社会問題の一部だったのかもしれなかったって。

自分らしく立ち上がれ

そんなこと言ってみてもよ、美容の仕事を続けますからねー。キレイで在りたいと思うこと自体は “悪” じゃないもん。そう、うまく言えないけれど、女性らしいことが悪なのではなく、キレイになりたいことが悪でもなく、女性らしさや美しさに誰かの定義があることが悪、それが違和感の正体。お決まりのエステシステムの中じゃ、キレイというものは定義された美しさを基準値にしている。シミ・シワ・たるみ、それにニキビ。日焼けなんかしちゃダメなの。当たり前にこれらがないパーフェクトな肌が善で。守れない者は悪で。仮にお客様がシワだけを悩んでいるとしても、次に売れるものがなくなればコンプレックスツンツン、粗を探すのよ。物販は数字が必要だから。そんなコンプレックスツンツンアドバイス、お客様だって聞きたくないだろうし、わたしも言いたくない。目の前のお客様が望むキレイを届けるだけでじゅうぶんなのです。シワだらけでも人生が愉しい女性もいる、その逆もいる。スカートが好きな人、そうじゃない人がいるように。たるみがすごいけれど、小さなシミがどうしても嫌だと感じる人も。マリンスポーツも好きだし、色白でもありたい人だって。それを決めるのはビューティアドバイザーでもサロンでもなければ、誰かや社会ではなくって、それぞれ皆、自分自身。たった100人の人間さえも全員が納得するような美しさなんて幻、永遠の謎よ。女性が10人いるならば、10人それぞれの美しさ、自分らしさがあるんだもの。それが、それだけが本当に大切なの。特に、“若さ” が美しさの条件のひとつになっていること。これはいただけないよね。若く見える女性を誉めるとき、「お母さんに見えないですね。」って言うじゃない。…ん?見えちゃいけないんですかー?お母さんってダメなんですかー?わたしだったら「お子様の自慢のお母様ですね。」と言ってあげたいぐらい、常に根性がひねくれているのは別の問題で。世の中の誰もが、悪気なく「女子力が高いですね。」「お母さんに見えないですよね。」を誉め言葉としていたように、わたしたちは与えられた美意識に翻弄されている。誰かに与えられた美意識なんてクソクラエ!大きな声で叫んじゃお。

わたしのミソジニー

わたしは、たぶん?たぶんよね。ここ十数年、女性であることがずーっと苦手、むしろ嫌いだったんだろな…と、今回自己分析をしてみました。セクシャルマイノリティではなくて、ね。ママ友同士の “○○ちゃんのママ” のように、もしかしたら、それよりも根深く。名前の有無なんかじゃなくて、自分が女性であると自覚してしまうと、社会や男性に取り込まれてしまうような不安。ただただ消費される存在、奴隷、選択権もない。自分という人間がいなくなるような感じが心から嫌いでした。いわゆる母、いわゆる妻、いわゆる女って、社会やパートナーにどういう形で奉仕ができるのか、ただの役割で呼び方が変わるだけな気がして。母ならば、育児と家事。妻ならば、家事とセックス。女性ならば、女らしさとセックス。だからなのかな、もう何も奪わないで!と願っていたのかもしれない。ま、何も奪われてはいないし、わたしの心の問題なのだけど。でも、この考え方自体、わたしの隠れていた女性蔑視、ミソジニーそのもの。女性でありながら、女性をバカにしていた。同族嫌悪とも少し違う。わたしはわたし自身をバカにしていたの。だから、この考え方はもう捨てなきゃ。女性の心が複雑なのは、社会的な女性蔑視の他に、自分の中にも密かに根を生やしている女性嫌悪・蔑視があるような気がします。恋愛至上主義、彼女たちの女性性に向ける嫌悪。仕事至上主義、バリキャリ女性の男性性に向ける嫌悪。言葉にすると整然とするけれど、これらはただの生き方のひとつなのに。女性という定義に振り回されて過ぎて、わたしたちはいわゆる時代時代の定義からズレた生き方をする同性と戦うように仕向けられてた…なーんて書くと大袈裟なんだけど。女らしさというものに少しでも違和感を感じたことがある人なら1回ぐらいあるでしょ?「女に生まれなきゃよかった…」と呟いたこと。そういう感覚。でも、もう、おしまい。これからの時代は女性でもなく男性でもなく、ただ自分らしく生きてもよいのだ。そんな時代が始まってきている。そう、自分らしく!自責の未来形。選んで、責任を持って、生きる。ただただ自分らしく。だから、ミソジニーは卒業なのだ。

いいなと思ったら応援しよう!

ゆりこ
よろしければサポートをお願いいたします☺️いただきましたサポート費用は「キレイ・愉しい・美味しい」美容・イベント・料理等々、活動費用とさせていただきます🙏