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現代写真家宇田川直寛の作品を見て 故郷恋しい 背景とは

4月ごろから徐々に陽が出てきたので大きめの鉢をいくつか買って花の種や球根を植えて育てている。
咲いた花を叩き染めに使いたい。
最近では窓際でぐんぐん苗を伸ばしているものの、ここ数日土に小さい虫が沸いていることに気がついた。

水をあげすぎたのだろうか、どこからともなくやってきた小さい虫は柔らかい土に卵をうんで羽化させているみたいだ。
どうすればいいのかわからなくて、キッチンの部屋の窓を開けて窓の向こうに鉢を置いた。
風を当てて、1日直射日光に晒し熱でどうにかならないだろうか。
回復しなければ中庭にある共同の庭スペースに埋めよう。

バランスを崩して小さい鉢を倒した、すぐに起こしたものの窓際の出っぱった白い木の板の上に赤茶色の土が少しこぼれた。
あーあ、そのまま放置することにした。
風が吹くたび室内の床に土がこぼれていく。

昨日の朝、本が届いた。
1ヶ月前にオンラインで注文した本、予想よりもかなり早く届いた。
日本からの送料とドイツの関税は本自体の値段を上回ったがそれでも日本からドイツにこうして荷物が届くのはありがたい。
ロシアのウクライナ侵攻の影響で止まっていた空輸便が再開したのは最近のことだ。

届いた本は写真の作品集、
宇田川直寛さんの「オウマシ」
購入時「オウマシ」か「オシッコパーパー」かで悩んだが、作者ご本人に直接相談したところ丁寧な返信をいただいた、内容を聞いてまずはオウマシを見てみることにした。


朝受け取った本をベッドの中で眺める、もう一度、今度はベットに座って眺める、次はコーヒーを入れて眺める、
思うことが多かったのでこうして文字にして残そうと思う。


本の中身は主体となる被写体が何枚も続く構成になっている。
パフェが続くシリーズではその角度やピント、何層にも変化する背景というレイヤー、時間の変化、「日常」という世界の奥行きを体感し、
私という個人の記憶の絶妙な場所を刺激された。

しばらく帰れていない日本の、故郷の、家族の記憶。
主体と、主体以外というものをまざまざと感じられた。

シンクの果物が続くシリーズでは、物語を勝手に解釈しストーリーを関連付けて処理してしまう脳みその習性を体験した。

あくまで私個人の体験や感想であり、見る者によって想起させられるものはさまざまであろうが、見るとはなにか、を考えさせられた。

表紙の文字が図形に見える

作者宇田川さんの展示に以前行ったことがある、銀座で行われた宇田川直寛展「パイプちゃん、人々ちゃん」に訪れた際、作品というものの組み立て方や作品の成り立ちに広がる背景がとても面白いと思った。
展示に一緒に行った友人が家にパイプちゃん、人々ちゃんのチラシを持って帰ったところ、それを目にした旦那がバイブちゃんと読み間違え如何わしいイベントに行ったのではと疑われたのもいい思い出だ。

パイプがバイブになる、日本語は面白くて可愛いらしい。

オウマシの表紙は中央にデカデカとオウマシの文字が浮かんでいる、飾りっ気のないゴシック体だ。
ドイツ生活で見慣れないカタカナの文字は気を抜くとただの記号に化けてしましそうになる。
文字という意味のある言葉から視点が離れ、カタカナの図形的魅力が浮き出る。
意味のわからないオウマシの文字だからこそ余計図形的に見えた、アオムシだったら文字自体が青虫に見えていただろう。
モシモシだったら人とのコミュニケーション、もしくはifを想起させるし、マシマシだったら勢いのある力強さを想起させられる。
脳みそは自由である。

動物と人間が同じ絵を見たとき、見え方が違うという話を思い出した。
動物はその物体をただの物体として、視覚や嗅覚、触感で認識するのに対して、人間はそこにさまざまな意味を探り、紐付け、投影できる。
私たちは直線や曲線で構成された文字という記号を脳内で言葉に紐付け変換し文字を通してその背景を見るという長い旅を一瞬にして行っているように感じる。

その面白さはヨーロッパに住んでいて強く感じる。
意味不明な日本語のデザインがなされたTシャツを見かけるたびに胸が高鳴る。
日本語がわかるものにとっては少し意味がずれた面白い言葉であっても、ほとんどの人にとってはそれは言葉とも取れないなんと無くかっこいい記号でしかない。
逆に、ドイツに来た頃はただの記号だったドイツ語の文字の羅列が、徐々に意味を持っていく過程を今も体験している。




中身は白黒写真がメインでページを捲るたびに1ページ前と少し違う写真が続く。
たまに小さいカラー写真が写された薄いトレーシングペーパーのような紙がホチキスで丁寧に留めてある。
たまにカラーが差し込まれることで、白黒の世界と色のついた世界を行き来することができる。

昔鉛筆デッサンをする時に、一度対象物を写真で撮って白黒に変換するといい、と誰かが言っていた。
そうすると目で見ている思い込みを取り払い、純粋な光と影を見ることができる。
そうして描かれたピュアな光と影の絵は、見た者に色や質感を想起させることができる。

色は白黒を含み、白黒は色を含む。
そんなことを考えながらページを捲る。

ファミレスパフェシリーズ

この本の大部分はこのファミレスだかレストランだかの一角のテーブルに置かれた物を中心とし、
西日を浴びるパフェ、紙ナプキン立て、呼び鈴のボタン、テーブルの向こうのプラスチックでできた装飾の葉っぱ、水垢のついたガラス、その向こうの道、向かいの建物の壁、向かいの建物がショッピングモールであるとわかる壁の無数の看板、建物のガラスに反射して映り込むこちら側の建物、空、夕日の雲、溶けていくパフェ、パフェの手前のメガネ、
など無数のレイヤーで構成されている。

この写真の連なりを眺めている時、私はとても懐かしい気持ちに浸っていた。

暑い夏の日、買い物がてら涼みに入ったファミレスでパフェを頼み、お喋りを楽しむ母と叔母、もしくは姉の会話を半分聞きながら外の景色を眺めている、そんな気分になった。
大した用事はないのに何回も行った、どこに行っても同じようなファミレスやショッピングモールは私のさまざまな記憶に溶けるように結びついている。

以前日本に帰国した際、ファミレスで食べた和風パフェの味に感動したのを覚えている、その時に母や叔母が喋っていた内容はすっかり忘れた。

母はマイペースな人だがお喋り好きな叔母といると長いこと楽しそうに話しこむ、私の姉も好きなものの話をしだすと永遠と楽しそうに喋っている。

家族や友人と話すとき、私は全く違う場所を見ている。
テーブルの上のひしゃげたストローの袋や、窓の外の道を行く人の膝ばかり眺めていたりする。

昨日ある人と話していた時は、テーブルの端に置かれた胡椒を挽くガラスの筒の中の黒や白の胡椒の山のてっぺんを眺めていた、
そこからその上の白い壁にかけられたキャンバスの絵の、中央下あたりの黒い線だけを眺め、斜め左にいる相手の目を見て頷いて、また目線を胡椒の山のてっぺんに戻す。

海外に住むようになって相手の目を見て話すことには慣れたものの、気を抜くと全く違うところを見つめていて、何かそこにあるのかと勘違いして話し相手が私の視線の先を何回も振り返ることがある。

その度に、ああ、また違うところを見ていた。と自覚する。


このパフェの風景は、ああ、また違うところを見ていた、そんな風景を切り取っているようだった。

もっと言えば、写真の中でパフェは主体的な被写体であるが、その奥のガラスや建物、そこに反射するこちら側の頭上の空、という多数に広がる背景との関係性を丁寧に紐解き展開することで、
パフェのある風景そのものも、私の家族や友人との思い出の背景になっていることに気付かされる。

主体は背景にぐるりと、ふわりと囲まれていて、主体を思い出すにはその背景がどうしても必要だ。

これは写真という媒体に限った表現なんだろうか、他のアプローチを通した場合、全く違う出力になるのだろうか。
考えている時、なんとなく思い出したのが画家、山口晃のインタビュー


細部に分解し、
像をくっきりさせようとすればするほど、
イメージは、ぼやけてしまう。

ましてや、
そのイメージを「絵」にしようものなら、
最初の一筆で、
まぶたの裏のおかあさん像は、
木っ端微塵に、壊れてしまうと思います。

画家・山口晃さんに訊く「創作論」第2回 おかあさんが木っ端微塵。

絵描きにとっての
「見る」ということのひとつは、
「意味をはずす」ことです。

画家・山口晃さんに訊く「創作論」第5回 見る、とは何か。

というフレーズを思い出した。

同じく、山口晃が中学生の頃、文化祭で展示したスポーツカーの絵の話を思い出した。

スポーツカーの絵を描いて、時間がなかったから背景はテキトーな岩山をサラサラと描いた、スポーツカーを見て欲しかったし、みんなもスポーツカーを見るだろうと思ったら、思いの外背景に関する意見が多かった。
という話を技術という観点の話の中でしていた、

磨かれるほどに透明となり、
それ自体は見えなくなっていくようなもの。

画家、山口晃さんに訊く「技術論」


画家の話だが、見る、ということ、表現をする際の話になんとなく繋がった。

ルーベンスの絵は上手すぎて見るものにとって違和感のない透明な絵になった。
ルーヴル美術館に訪れた人々は「ルーベンスの部屋」ではなく「モナリザ」に集まる。

画家山口晃が「透明な技術」によって表現しようとしているのは「精度の高い直感」がもたらすもの。

表現者が向き合うのは、どうしても心をなでてくる「リアル」という、実態がなく捉えどころがないもの。


現代写真家、宇田川直寛のオウマシを見て感じたのは
イオンのある風景は私の故郷の背景であり、
ファミレスの外の景色は私の母や地元の友人の背景であり、
毎日のそこにある日常というのは私という主体の後ろにある透明な背景である。

今窓の外に見える中庭の蔦の葉も、軋む木の床も、外に出れば聞こえるドイツ語も、いずれは私という主体を彩る背景になる。
地元青梅市の田んぼを歩いた日も、カナダのトロントの雪の日も、オーストラリアの海沿いを走る毎日も、そこにある日常が今の私を彩っているように。

もちろん飲みすぎて日本帰国を逃した日や、
クリスマスに泣きながら川沿いを歩いた日、
練りに練った作品を形として生み出したような閃光のような日もある。

日常は静かで豊かであり、爆発的に美しい。

透明すぎて気がつかないものを創造者、表現者によって巧みな違和感を通して伝えられた捉えどころのなく豊かなリアル、それこそが日常であり爆発的な閃光である。


シンクの果物のある風景は
一連のシンクと果物の流れから、最後の一枚のショットに写り込んだ封が閉じられたままのこどもちゃれんじのチラシ、テーブルの下の車柄の布に気が付いてから、
一連の果物の写真は家族に見立てたのではないか、と脳がストーリーを組み立てた。

脳みそは勝手に動く。

本を通してここまで記憶だのなんだの思考を巡らせてから、ふともう一度オウマシの本を手に取る、
よくもまあ、ただの紙とそこにインクが乗っかった物体にここまで意味を見出すことができるもんだな。

人間は猫にはなれない、モンモンと考えるめんどくさい生き物だけども、(猫がモンモンと考えないのかどうかは知らないが、少なくとも何も考えてなさそうに見える)だからこそ人間は面白いわけで。

その思考の余白やスペースを多分に持ち合わせた作品に出会うたび、
私は無限に広がる園庭でおもちゃ箱をひっくり返した子供のように純粋になれる。
安心して悩んで、安心して遊べ、と言われているようだ。


そんな作品を私も作りたいもんだ。


よく歩く道の小売店
友達んちの建物の中庭に生えた花