「ボランティアはテロリストではない」マリウポリ住民を助けた25人がDNRの刑務所に拘束されている。
Zaborona 6/8/22の記事を訳しました。
ザボローナはそのうちの4人について語る
砲撃を受けているマリウポリから、命がけで市民を避難させたボランティア達が、長期間の投獄に直面している。彼らは、キーウに支配されていないドネツク州の流刑地オレニフカに2ヶ月以上拘留されており、そこには最近アゾフスタルの戦闘員も収容された。25人は「テロ」の罪に問われているが、彼らの親族は、マリウポリ住民を救おうとしただけだと主張している。『ザボローナ』の特別報道で、ジャーナリストのナディヤ・シュヴァチャクは志願者の親族に話を聞き、囚人達がどんな状況に置かれているのか、どんな条件が期待できるのかを突き止めた。
Vitaliy Sytnikov 34歳
本格的な戦争が始まってから、マリウポリのタクシー料金は10倍にもなった。しかし、ヴィタリーは正規の料金で、時には無料で、最も危険な地域から人々を連れ出し続けた。
「彼は行くことに同意しただけでなく、長い間マリウポリに住んでいる人に、それが必要だと説得することができたんです。そのために彼はその後、時には砲撃を受けながら戻ってきたこともありました」とアレフティナさんは語った。
ヴィタリーの母スヴィトラナは、『ザボローナ』との対談で、”あるお婆さんを説得しきれなかったことがあった“と回想している。そして数日後、彼はこう言った。「ふぅ、やっとこのお婆さんを連れ出せたよ 」と。
3月17日、ヴィタリーと彼の家族がマリウポリを離れると、「子供」、白いバンド、赤い十字架が書かれた空のミニバスが市内へ移動していくのが見えた。「明らかにボランティアでした。ヴィタリーは感じるところがあったのだと思います。」と母親は振り返る。そして9日後、彼は再び被災者救援に向かうことを決意した。
「ヴィタリーは本当に役に立ちたい、助けたいと思ったのです」とアレフティナは付け加える。「マリウポリでは食料が不足している、女性や子供が残っている、徒歩で避難している、緑の回廊がない、といった話を聞いたんです。そんな時、3月20日にザポリジャーに有志が集まり、バスの資金集めを始めたのです。しかし、運転手の確保が問題でした。マリウポリまで行って、すぐに地下室を見付けて人を乗せることはできない。運転手はマリウポリ出身者でなければならず、ヴィタリーは行くことにしました。」
ヴィタリーは3月26日にザポリジャーを離れ、その翌日から連絡が取れなくなった。親族はすぐにボランティアから、彼がオレニフカの流刑地に収容されていることを知った。
「私はまだ彼が釈放されることを願っています」とヴィタリーの母親は言った。「そして彼の命がとても心配です。」
Yevhen Maliarchuk 35歳
3月26日か27日に、ザポリジャーから故郷(マリオポリ)へ、バス3台分の隊列を組んで救助に向かった。これが彼の最初のボランティア活動だった。劇場の近くの防空壕から、20人ほどを救い出すことができた。
イエベンはこの後どうなったか、アルビナは帰還できた目撃者から聞いている。街を出る途中で、ボランティアはロシア軍またはロシア人が支配するDNR軍に止められた。マリウポリから25キロ離れたニコルスケで、乗客は尋問され、捜索された。イエベンのお金が見つかり、彼は避難のためのお金を稼いだと非難された。
アルビナはザボローナに「でも、彼は基本的にお金を取らなかった」と説明する。バスに乗っていた人達も彼が言っていることに違いないと言ったが、信じてもらえなかった。イエベンと数人のボランティアドライバーは目隠しをされ、手錠をかけられ、一時的にウクライナの支配から離れたドネツク州の村、スタロベシェボに連れて行かれた。取調べは1日か2日続いた。釈放された者の中には、拷問を受けたと証言する者もいるとアルビナは言う。そこからドネツクに連行された。ボランティアドライバーの何人かは釈放され、何人かはオレニフカの流刑地に連れて行かれた。
イエベンは2カ月以上もそこにいる。
「あそこには穴監房があるんです」「そう呼ばれている劣悪な部屋があり、8人用なのに20人も入れて、交代で寝るんです。親戚の誰かが(看守への賄賂として)お金やプリンターやノートパソコンを渡すまでは、水粥を食べさせていたのに、今じゃ囚人達は、親族から食べ物をもらったり、自炊したりすることが許されています」とアルビナは言う。
その人達は彼らの親族に、10年から20年の懲役刑に直面しているから、解放のためにあらゆる手立てを尽くしてくれと伝えることができたのだ。
「ボランティアはテロリストではないと叫ばなければなりません。」とアルビナは言う。「そして、交換を願っています。しかし、あちら(ロシア)が私達の(ウクライナの)人々を確保していると認めるまでは不可能です。」
Yuriy Leha 59歳
出発から5日後、ユーリイ・レハはニコルスケの検問所で拘束されていたことが明らかになった。彼は今、オレニフカの流刑地に収容されている。
「コロニーを出たばかりの男から電話がありました。彼は自己紹介をしませんでした。私の手は震え、私は泣きながら尋ねました。「夫は生きていますか?「生きている」と彼は返答し、「どんな状態なんですか?」「刑務所と同じだ」「彼らはテロリズムで告発されているのです」オルハは『ザボローナ』にそう告げた。
電話口の声は、女性に番号を削除し、決して電話しないようにと言った。
Oleh Pryhodko 29歳
私達はマリウポリからのバスの車列と一緒に出発しました。最後の検問所で、オレフの乗った車は護送され、オレフはニコルスケの司令官室に連行されました。ユリヤは別の車に乗っていて、彼の後を追った。彼女は、なぜ自分の息子を拘束するのかと尋ねた。「お前の書類も調べるぞ」彼らは言った。
「誰も書類なんか調べず、その直後には両手を後ろ手に回し、足を肩幅に開き、壁に顔を付けられて立たされました。すごい圧力と勢いで。彼らは、私達が自分達の陣地を写真に撮っていると叫びました」とユリヤは振り返る。「彼らは彼(オレフ)を牢屋に放り込みました。」ザポリージャ、ドニプロ、クリヴィー・リフから1日半で最大24人、友人や親類に会いに行ったボランティアが(牢屋に)いました。このカメラ(風景)はどんな風に見えますか?24人が立っていたら、足の踏み場もない。集会やコンサートのように 私達は一晩中立って過ごしました。私達は5リットルのペットボトルに入った水をもらいました。そしてその同じペットボトルに近くで男達は排尿しました。私ともう一人の女性はトイレに連れて行かれました。」
1日半後、囚人達はスタロベシェボ(ドネツク州、マリウポリから約130キロ)に連行された。男女別の独房があった。ユリヤが連れて行かれたのは、軍の女友達や姉妹、ウクライナ軍をかくまった少女達がいる独房だった。二重の独房に最大20人が入っていた。彼らは寝台の上や寝台の下で寝た。それで、その女性(ユリヤ)は4日間生きのびた。
「尋問のために呼び出された時、会話は2分で終わりました」とユリヤは言う。「聞きたくないが、ドネツクでのことを全部話すんだ 」「私達は全員、手と目にテープを貼られ、水田用ワゴンに乗せられました。息子もそこにいて、彼の苗字が聞こえました。」
ドネツクでは、拘束された人達は指紋を取られ、写真を撮られ、尋問を受けた。一日、そこで過ごした。開いたドアから、ユリヤは、息子が誰かに子供の頃からの人生を話しているのが聞こえた。そして、彼女も尋問された。夕方には、女性は解放され、息子はオレニフカに連行されたと報告された。
1週間半か2週間後、ユリヤはオレフに食料を渡すためにオレニフカに来た。彼女は「選別された」ので、二度と拘束されないとわかっていた。
「彼らは、あなたが衰弱ほど抑圧的です。:(例)「俺達(ロシア軍)は戦争が終わるまでここにいる」「俺達はウクライナ全土を占領する」「ザポリージャはすでに占領された、どこに行くんだ?」。「私が行ってさらってきてもよかったのですが、それでは出来ないと理解しています。」「どうなるかはまだわからないけれど、きっとすぐにわかると思います。」
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