戦争反対 私の意思表示
拡散力も影響力もない私ですが、何も言わないよりは。
と、ようやく昨年の衆院選あたりから考えるようになりました。
ロシアのウクライナ侵攻に関する各種報道を目の当たりにして、非力な私でも意思表示せずにはいられません。
戦争反対です。
核兵器の使用・保有・共有も反対です。
広島出身で、大学4年間を長崎で暮らしたことのある私ですが、
オーストラリアで暮らしていたとき、戦争の罪深さを心から悟った出来事があります。
語学学校に通っていたとき、私の広島・長崎の在住歴を知ったある国の男性が、酷く笑えない冗談を私に投げかけたらしいのです。
なぜ「らしい」と又聞きなのかというと、その場では私が理解せずにいたからです。
さらに悲しいのは、後々の出来事。
「あなた、あのとき理解してなかったかもしれないけど、こんなこと言われてたのよ」と、そのときの状況を笑いながら私に話し聞かせたのは、なんと日本人の女性でした。
私も一緒に笑うと思って、思い出話として聞かせたのでしょうね。
彼女は笑っていました。
私は笑うことも、怒ることも、泣くこともせず、ただ「へーそうなんだ、知らなかった」と言うだけだったと思います。
そしてシェアルームに帰り、ひとり、泣きました。
泣きながら、私はなぜ悲しいのか、何に怒りと絶望を感じるのか、平和とは、戦争とは・・・
自問自答しました。
心無い言葉を発した彼自身に対しての落胆と、
核兵器について、世界と日本の認識に想像以上のギャップがある事実を突きつけられたショック。
そして、同じ被爆国日本で生まれ育ったはずの、同年代の彼女と私の、認めたくない意識のギャップ。
私は彼を憎むのか、
彼の国を憎むのか、
彼女を呼び出して泣きわめくのか、
この怒り悲しみをSNSで発信して、なぐさめを求めるのか。
不毛。
あぁ、これが戦争なんだ。
戦争は終わってるはずなのに、いまだ憎み合い、傷つけ合う。
私がそれを語ることで、必要のない新たな悲しみを生む。
戦争実体験者の傷口をえぐり返す。
不毛。
戦争とは想像を絶する罪深い過ちなのだと。
絶対に忘れてはならないし、決して繰り返してはならない。
そう心に刻み込まれた出来事でした。
この期に及んで、戦争がはじまっていて、人々は傷つき、
核兵器の脅威を現実に感じています。
廃絶すべき非人道の極みなのに。
数日前、この混乱の真っ只中において、あろうことか日本の前首相が、核共有の議論を促す発言をしたことに愕然としました。
現首相は検討することさえも否定しましたが、与党内では支持する声もあるとか。
前首相の意見を支持する世論の声をみかけては、眉をひそめずにはいられません。
全人類の意見が一致することはないなんて分かっていますが、ただただ悲しい現実。
平和維持のために核戦力は必要ありません。
日本の非核三原則をあり方を見直し、
核共有についての議論をしようという思考は、
真っ向から非難します。
のど元にナイフを突きつけ合って、
仲良くしましょう、なんてできますか?
子どもたちに何と説明しますか?
私は戦争に反対です。
非力な私の小さな叫びですが、声を上げていきます。
今週末、広島市内のデモに参加します。
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