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泥濘

ここが商店街だということは聞こえてくる音で想像できたが、視界がぼやけている。
雨にさらされた水彩画のように輪郭が曖昧で、何処が何の店なのか、さっぱり判らない。どうやら、眼鏡もコンタクトレンズも着けずに出てきてしまったらしい。
記憶を頼りに家まで帰るしかないだろうと思っていると、道行く人が「其処に眼鏡屋がありますよ」と言う。
示されたほうを見ると、打ちっぱなしのコンクリートの壁から老若男女の目元と鼻が生えている。それぞれの鼻のつけ根には折り畳まれたままの眼鏡がのせられて、目元は眼鏡を通して商店街の通りを眺めている。

私が鼈甲の丸い眼鏡を手に取ろうとすると、その持ち主である灰色の眉をした老爺が静かに呻いた。眼鏡を奪った私を、淡い青色の瞳でぎょろりと睨んで何かを訴えていたが、遠い国の言葉でよく判らない。
眼鏡をかけてみたが、視界の曖昧さは変わらなかった。どうやら度数が弱いらしい。
これじゃ駄目みたい、と老爺に眼鏡を返して、今度は隣りの少女の眼鏡をかけてみる。やはり視界は曖昧なままだ。

いくつか眼鏡をかけてみたものの、何れも私の目には合わなかった。
薄紫の眼鏡をかけた女性の目が、良かったじゃない、と私に微笑みかける。私は、良いものか、何んにも見えないのに、と呟く。
なあに、貴方も私たちみたいになりたいの?
そう女性に問われたが、私は滲んだ水彩画の視界を追うことで精一杯だった。

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