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人魚の棲む町

私が生まれたのは山に囲まれた小さな町で、村の真ん中には川が一本流れていた。
幼い頃、祖母に連れられて川岸を散歩していたときに、私はこんなことを尋ねた。

この川に沿ってずっと歩いて行ったら、どこにたどり着くの?

祖母は、海だよ、と答えた。
幼い私は、そのときまだ海を見たことがなかった。釈然としない私に、祖母は海の話をしてくれた。
どこまでも広がる深い青。寄せては返す波の音。川に棲んでいるのとはまた違う魚たちがいること。人魚たちも暮らしているかもしれないこと。

人魚? と私は首を傾げた。聞いたことのない言葉だった。
祖母は、海の底で暮らしているかもしれない、人魚たちの話をしてくれた。人間の上半身に、魚の下半身をもつ人魚たちは、美しい声で歌を歌うという。海で暮らしているから、見つけることができるのは稀だ。
でもね、と言って祖母は一呼吸置き、こんなことを言った。

人間の姿に変身して、人間たちに紛れて暮らしていることもあるのよ。人魚が人間の姿でいられる時間は、とても短いそうだけどね。

私は祖母の手を引っ張って尋ねた。
人間でいられる時間が終わったら、また人魚に戻るの?

祖母は首を横に振った。
それがどうだか、人魚に戻るとしても、海の底のことだから分からないねぇ。もっと別の世界に行くのかもしれない。

私は、ふうんと言って川のほうに目をやった。初夏の陽射しが水面をきらきらと照らしていた。

.*・゚ .゚・*.

故郷の町を離れて、私は海辺の町で大学生になった。
山あいの町で育った私にとって、海というのは非日常で特別だった。海辺の町に棲むことができたらきっと素敵だろうと思って、その大学に進学することを決めたのだ。

ひかりは、私と同じ専攻で、講義のときはいつも一番前の席に座っていた。
私はいつも彼女のことを後ろから見て、真面目でとっつきにくそうだなと思っていたけれど、ある日寝坊して行けなかった一限の授業のノートを借りたことがきっかけで、彼女のことをよく知るようになった。

よく笑う女の子だった。すらりとした体躯はあまり高くなく、いつも肩上で切りそろえられた黒髪をつやつやとさせていた。どの講義も休まず真面目に受けて、成績も優秀だった。大学から成績優秀者として表彰されたりしていたようだが、本人はそんなことはおくびにも出さない。教室で後ろから見ていた彼女から想像できないくらい、向かい合って話す彼女は気さくだった。
ひかりは海辺の町で生まれ育って、両親と一緒に暮らしていた。私に町のおすすめの場所を案内してくれて、趣味の良いお店もたくさん教えてくれた。彼女のおかげで、私はすぐに新しい町に馴染むことができた。

何事にも全力で取り組むと思われていた彼女に、すこしばかり変化があったのは、ちょうど同級生たちが就職活動を始める頃だった。
私もまた進路の決断を迫られていて、故郷の町に帰ったものか、どうしようかと悩んでいるとき、彼女に何気なく尋ねたのだ。やっぱりひかりは、この町で就職するの? と。
彼女は曖昧な笑顔で、まぁそんなところかな、と答えた。彼女らしくないと思った。真面目な彼女のことだから、就職活動にだって精力的に取り組むのだろうと思っていたのに、実際にはそうではなかった。もしかして大学院に進学するのだろうか、とも思ったが、そんな様子でもない。何かを隠しているようにも見えたが、言いたくないことを無理矢理言わせるのは可哀想だと思い、私は進路について彼女に問うのをやめた。

結局、専門学校に通って資格を取る、と言って、彼女は卒業して行った。私は実家に戻って、山あいの町にある小さな会社で働くことになった。
こっちに来たときは連絡してよね、と卒業式後に彼女は言ったけれど、山あいの町に帰った私が海辺の町を訪れることはなかなかなくて、そのままなんとなく、時間が過ぎていった。

彼女の訃報が届いたのは、卒業して二度目の春が終わろうとしていたときだった。
ひかりが亡くなった。病気だったという。
ひかりの電話を使って連絡してきた彼女の母親が、大学時代から密かに闘病していたこと、告別式は家族だけで静かに終わらせたことを教えてくれた。
私は上手く声が出なくて、よかったらお線香をあげに伺わせてください、と言うのが精一杯だった。

電車を乗り継いで、海辺の町へ向かう。窓の外に懐かしい景色が増えていくとともに、彼女がいなくなったことが現実味を帯びてきて、頬がいつの間にか涙で湿っている。
俯いたままの私が到着したのは海沿いの終着駅で、私は気持ちを落ち着かせるために、人気のない浜辺へと出た。

私は幼い頃に祖母から聞いた人魚の話を思い出していた。
人間の姿でいられる時間が、とても短い人魚。
人間でいられる時間が終わったら、どこかへ消えてしまう人魚。
しゃがみこんで、砂浜を素手で掘ってみたけれど、何も見つからない。知らぬ間に滲んできた涙がぽたぽたと滴って、砂に吸い込まれて消えていく。
私は心の中でひたすら、寂しい、寂しい、と繰り返した。
初夏の陽射しは、水面をきらきらと照らしていた。


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