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【短編】甘いものが食べたくなったら

はたから見れば,普通の平凡な主婦なのだろう.
実際,これといった特徴のない,平凡な主婦なのだけれど.

45歳.
酸いも甘いも知り尽くした感があるし,人生の半分を過ぎ,あきらめのようなものすら感じる.

夫は優しく,私を愛してくれているけれど,息子が生まれてからは,私は女ではなく,母親になった.
夫も私のことをママと呼び,お母さんと呼んだ.
その息子も,この春から大学生になり,家を出て一人暮らしを始めると,母親ですらなくなったように感じる.

何者でもない自分は,なんのために生きているのだろう.

ママ友に会えば,親の介護や自分たちの老後の心配ばかりで気が滅入るし,かといって,今更夫と2人で休日にどこかに出かける気にもなれない.

きっとこれからは,息子が連れてくるだろう新しい家族を心待ちにし,自分に少し似た孫を糧に生きていくのだろう.

私の人生は,これでひと段落なのか,もう終わってしまったのか.

***

日曜日の昼下がり,夫の親の喜寿のお祝いを買うためにデパートへ向かった.
子どもが生まれてからというもの,車で行ける大型ショッピングモールばかりで,デパートに来ることも少なくなった.
たまにデパートに来たとしても,自分のものを買うなんてことはありえない.

デパートの自動ドアを抜けると,ひやっと冷たすぎる空気が襲ってきた.
そういえば,初夏の日差しは強く,長袖の背中が少し汗ばんでいる.
きれいに着飾った若い女性やブランド物に身を包んだマダムとすれ違うたび,自分がみすぼらしい格好で来てしまったのではないかと不安になりながら,足音を立てないように店の奥に足を進めた.

エスカレーターに乗り,横の鏡を見た瞬間,ぎょっと声を上げそうになった.
そこには,似合わない服を着て,ぼさぼさの髪には白髪が目立ち,口元にはほうれい線が深く刻まれたくたびれた女が映っていた.

いつの間に,こんなに年を取ってしまったのだろう…

暗い悲しみがどっと押し寄せてきて,口からこぼれだしそうになるのを必死でこらえて,うつむいたままエスカレーターを降りた.

自分の母親もこんなだっただろうか,普通の45歳なんてこんなものなのだろうか,などと誰かと比べて安心したいという気持ちに駆られて,通り過ぎる客の顔を横目でチラチラ見ながら歩いた.

化粧品売り場の前を通りかかったとき,ショーケースに飾られた真っ赤なリップが目に入った.

口紅なんて,もう何年もつけてない気がする…

何かが背中を押して,ショーケースにあった真っ赤なリップを握りしめると,足早にレジに向かった.
それから,トイレに駆け込むと,鏡の前で赤いリップを塗った.
途端に,みすぼらしいおばあさんのようだった顔は,花が咲いたようにパッと明るくなった.

思わず涙がこぼれ落ちた.
同時に,何かが私の中で一気にこぼれ落ちるのを感じた.

気づくと,エレベーターでデパートの10階にある美容室に向かっていた.
死ぬまでに一度行ってみたいと思っていた高級美容室.
天気のいい週末だったこともあり,少し待っただけで,通してくれた.
白髪を染め,ぼさぼさだった髪をきれいにカットし,ブローで整え,メイクをし,最後にさっき買ったばかりの赤いリップをつけてもらった.

それから,デパートの3階にある今まで通り過ぎるだけだったハイブランドの店のドアを躊躇なく開けると,人形が着ていた派手な水色のセットアップを試着した.
まるで自分のためにしつらえてあったかのようにぴったりで,10歳くらい若返ったように見えた.
店員が飾ってあったハイヒールを持ってきた.

ハイヒールなんて履いたことがない

ゆっくりハイヒールに足を入れると,自然と背筋がピンと伸びて視線が高くなり,今までとは違う景色が見えた.鏡に映っているのは,もうさっきのみすぼらしい女ではない.

そのまま,着てきた服や靴は処分してもらうように頼み,慣れない足取りで店を出ると,用もないのにデパートの店内をくまなく歩いて回った.

気分がよかった

買い物客がみんな自分を見ているような気がしたし,自分は平凡な主婦なんかではなく,特別な存在のように感じていた.

そうか,私は女なんだ

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