音楽と建築
「音楽のような建築」という言葉がはじめて頭に浮かんでからといい、私はこの言葉にとりつかれている。
音楽と建築という相容れない二つの概念を組み合わせた、ちょっぴり文学的な表現に、酔いしれているだけかもしれない。
いずれにせよこの記事は、音楽を奏でるように体験する空間とその価値について考えた私の随筆である。
時間芸術としての建築
絵画が〈空間芸術〉であるのに対し、音楽は〈時間芸術〉。
芸術の世界においては、このような対比が存在するらしい。
このような分類がなされるきっかけとなったのは、18世紀のドイツの思想家であるゴットホールト・エフライム・レッシング。
要するにレッシングは、絵画や彫刻などの視覚的な芸術と、舞台や映画などの視覚以外の感覚をもって鑑賞される芸術を区別したのである。(言うまでもなくレッシングの時代に映像技術は存在しなかったが)
静止した空間の中に物理的に存在する空間芸術と、動的な時間の連鎖の中に瞬間的に存在する時間芸術。
ただし、すべての絵画や彫刻が時間の概念を無視しているというわけでは全くなく、静的な作品のなかでも物語性・ドラマ性を演出するため、時間の流れを表現するための試みは多くなされてきている。時間という概念が、芸術に限らずあらゆるモノ・コトに抑揚をつくりだし、ゆえに奥深さを与えることは疑いようがない。
こう考えると、三次元空間の中の静的な物体として存在する建築が空間芸術として分類されることは当然の論理と思いつつも、時間の概念を建築に取り入れたいと思うのが人の世の常。「音楽のような建築」を考えるということは、時間芸術としての建築を体系化するためのヒントになり得るかもしれないのである。
ここから先では音楽のような建築について、わかりやすく譜面性と楽器性という音楽の2つの特徴に分けて考察していきたい。
1. 譜面性
◆ 作曲と空間構成
ジャンゴ・ラインハルトやジャック・セッチー二といったジャズのレジェンドたちが譜面を読めないのは有名な話だが、音楽は音符や記号などで譜面に書き起こすことが原則可能だ。一つの楽曲は基本的に複数のパーツが組み合わさることで出来上がっており、物語と同様に起承転結が存在する。
「作曲すること」を英語ではcompositionというが、この言葉は面白いことに、空間構成といった意味合いでも使われる。すなわち作曲するという行為は、音から節、節から章、章から曲というように、部分から全体を構成していくことであり、この構成の巧みさこそが楽曲に抑揚をもたらし、さらには複数人が時代を超えて時間の流れを共有することを可能にする。
この〈構成〉という概念がとても意識されているのが、日本の露地空間である。
露地とは、日常の俗なる世界から非日常の聖なる空間(=茶室の内部)へと向かうために、心の持ちようを整える空白の領域である。
『日本語と建築』でも書いたように、そもそも日本語には心の状態と身体の動きが一体となった動詞が多く存在するが、露地空間はそのような動詞を自然と順序だてて誘発するような空間構成となっている。
内田繁も著書『インテリアと日本人』で以下のように述べている。
茶事の席へと向かう客は、露地という譜面に従い、メロディを奏でるように歩みを進めることで自身の心を整え、さらにはお茶の席を共にする人たちと、その心の静寂さとゆるやかに流れる時間を分かち合うのである。
◆ シーケンスと決定的瞬間の不在
空間芸術と時間芸術の対比をベースに、レッシングは〈決定的瞬間〉という考え方を提唱している。これは、空間芸術というものはそもそも時間の表現に適していないという前提のもと、絵画や彫刻に物語性をもたらすための表現上の工夫のひとつである。
この決定的瞬間という考え方を建築に当てはめたのが、建物完成予想図(イメージパース)や竣工写真だろう。写真は確かに、建築の魅力を提示することはできる。ただし、それはあくまでも建築の魅力の一側面にすぎない。
譜面の一部を瞬間的に切り取って演奏することに意味がないように、建築のある一部を写真におさめたところで、その空間を連続的に体験することでもたらされるシーケンシャル(sequential)な価値は、なかなか伝わらない。
建築は、その空間が能動的に体験されることではじめてその価値が創出される。これはすなわち、譜面という紙そのものよりも、そこに記載されている内容が演奏されて価値が生まれる音楽と同じことではないだろうか。
となると、インスタグラムのような決定的瞬間だけを取り上げて価値のあるなしを判断するのは本末転倒なのである。
インスタが爆発的流行を遂げた現代の風潮に飲み込まれてしまうと、建築は表面的でわかりやすい基準によって評価されることになり、本質的な価値が見過ごされてしまう。
2. 楽器性
◆ 平均律とウツロイ
いうまでもなく楽器は、音を奏でる装置である。
楽器によって奏でられた〈音〉は、鑑賞者の意識を〈いま〉という時間に引き戻す。
日本の伝統建築は〈いま〉という時間感覚をとても大事にしてきた。
お茶の会が催される茶室建築は、その最たる例である。
茶の湯とは大切な客と〈いま〉という二度とない時間を共にすることにすべてを捧げる。茶室建築は、変化することを前提とした空間であり、季節や客ぶりなどといった要素をすべてふまえうえで、いかなる状況にも対応する。
すなわち〈いま〉に意識が引き戻される空間とは、〈時〉を取り入れた空間と言い換えることができる。そのような空間に共通する概念として、内田繁は、古い日本語の言葉である「ウツ」という観念の存在を挙げている。これは以下のことを2つのことを意味する。
(1) カラッポ
ウツワ(器)はここから派生したと言われている。中が空であるからこそ何かによって満たされるという、空虚だからこそ宿る可能性を表す。
(2) ウツロヒ
以下のように派生する。
〇 移る:固定されないものが変遷する
〇 映す:光、影などがほかのところに映し出される
〇 写す:定着させる
ここから言えるのは、空間の中に〈時間〉という変化の概念を取り込み、〈いま〉という瞬間に意識を向けるためには、空っぽであることが大前提であるということ。この空っぽさから生まれのは、音楽のようにダイナミックに変化し、抑揚を作り出す楽器のような空間である。
日本人は昔から、その時々で刻々と変化する空間の豊かさを感覚的に理解していたのだ。
ウツなる空間の実現には、空間が単純化されていることが必要である。いわれてみれば当たり前のような気もするが、ここでいう〈単純さ〉とは、単に装飾がないつまらない空間という意味ではもちろんない。
音楽においては、クラシックやジャズなどといったジャンルごとに決められた〈調〉という決まりごとが存在する。決まりごとというある種の制限があるからといって、作曲者の創造性が制限されているわけではない。むしろその逆で、決まりごとがあるからこそ、その制限内において無限の創造性を発揮する自由が与えられているのである。
ここでいう「ウツなる空間の単純さ」というのは、空間と装飾・道具を明確に区別するという決まりごとの中で実現され、内田繁はこの空間と装飾の関係性を〈地〉と〈図〉の構成と呼んでいる。すなわち日本建築は、空間を構成する〈地〉と、装飾や道具を構成する〈図〉を明確に区別するというシンプルな律の中にて、思考と想像が凝らされた空間なのである。
◆ リズムと水平の感覚
このような日本的空間の単純さを実現させている特性のひとつとして〈水平の感覚〉が挙げられる。西洋が〈壁〉の建築であるのに対し日本が〈床〉の建築であるという対比が存在することは『日本語と建築』で書いたとおりであるが、さらにいえばこれは、西洋の建築の垂直性と日本の建築の水平性という対比へと派生する。
待庵のような小さな茶室から桂離宮のような大きな書院造まで、日本の伝統的な建築のほとんどが水平ラインの連続性を強調したデザインとなっている。長押・鴨居・軒先・障子・書院造の床・違い棚・付書院などといった部分においても、水平以外のものは存在しない。
アメリカの知覚心理学者J.J. ギブソンによれば、人間は空間を、視線方向に垂直な面(frontal surface)と平行な面(longitudinal surface)という2つの構成に分けて認知する。ここで言う平行な面とはすなわち、水平方向への広がりのことであり、これこそが人間が奥行性を視覚的に認識するために不可欠であることを、ギブソンは指摘している。
日本建築の水平性は、床に坐るという日本人の生活文化から必要に応じて派生したプラクティカルな性質に過ぎなかったが、この性質こそが空間に特有の奥行性、さらにはそれに伴う心地よいリズムを生み出しているのだ。
◆ 呼吸と追体験
茶の湯は、〈いま〉という二度とない時間を大切にすることを先に述べたが、そのために茶席や香席に欠かせないのが〈お点前〉である。一杯のお茶をいただく、あるいは、一炷の香木を聞く体験の価値を最大化するためにお点前は存在する。
お点前がなされる〈間〉の時のゆるやかさは、席を共にする一人ひとりと共有される。それまるで、楽器の演奏を聞くような行為である。このとき茶室空間は、お点前を奏でるためのサロンであり、楽器なのである。
さらに言えば、お点前をすることは、過去の人間と同じ時間の流れを能動的に追体験することも意味する。モーツァルトのピアノソナタを奏でる際に、400年に生きたモーツァルトや、その楽曲を演奏してきた偉大なピアニストたちと同じような呼吸のリズムになるように、お点前をすることは過去の茶人たちと同じような呼吸をきざむことである。
ウツなる空間にてお点前をするとい行為は、意識と無意識の狭間にある唯一無二の存在である〈呼吸〉を通してその豊かさを感受することほかならない。それは、時を超えて現代に残ってきたものの価値の本質を全身で受け入れることなのである。
◆ 余韻と見立て
日本語には「余韻にひたる」という美しい表現がある。
元はと言えば、音が鳴り終わった後に残る響きを味わうことを意味する言い回しであるが、今ではその意味は広がり、ある物事が終了した後に残る余情を味わうことを意味する表現として使われるようになった。
音楽に〈余韻〉という概念が存在するのは、音楽は時間の流れを前提とした時間芸術であるから他ならないが、さらに私はこの概念が、日本特有の「見立て」の文化に通ずるものがあると思えてしかたない。
見立てとは、何かをそのまま直接表現するのではなく、それとは別の物ごとになぞらえて表現する技法である。〈アナロジー思考〉と言ってしまうと少しニュアンスが異なる気がしないでもないが、要するにそういうことである。見立ての技法は日本で、文学・詩歌・庭園・能・落語といった多く場面で用いられてきた。
例えば能は「省略を美とする芸術」と言われているが、能舞台には緞帳がない上に、オペラやバレーなどに代表される西洋の舞台のような大掛かりな舞台装置やリアルな小道具は一切存在しない。つまり能という舞台芸術は、舞によって観客を物語に引き込むこと以上に、舞われていない余白の時間に観客の想像力を豊かに掻き立てられるかが問われる。余韻の美しさこそが、本当の勝負所なのである。
余韻は人間の内なる世界に直接的に訴えかけ、芸術と心の隙間を埋める唯一無二の要素である。人間の内なる世界は無限の広がりを持つものであり、ゆえに、余韻が人間の内なる世界にもたらす豊かさも無限の可能性を持つのである。すなわち見立てることによりもたらされる余韻は、受け手個人の身体的・心理的状態によっても七変化し、向き合うたびごとに自分と世界についての新しい発見を促すのである。
裏を返せば〈見立て〉とは、受け手の感受性に深く依存する創造手法でもあるため、受け取る側にもある程度の知識と能力がなければ意味をなしえない。すなわち〈見立て〉がもたらす豊かさとは、表面上は一見わかりにくく、受け手側が能動的に思考することを前提とするが、そのわかりにくさこそが本質なのである。だからこそ、その意味と真意が理解できた瞬間の喜びと感動、何千倍にも膨れ上がるのだ。
私は、余韻のある建築を追及していきたいと強く思いつつも、まだまだ勉強不足であり、この〈見立て〉という概念がこれまでいかにして建築に取り込まれてきたか、言語化できていない。しかし、今後この課題について思考を深めていく際にも、音楽が何かしらのヒントになるのではないかと思っている。
思考を止めたとき、この国の文化はなくなる。
見立ての文化が顕著に表すように、日本の伝統文化は受け取る側にもある程度の教養と感受性を前提する。それゆえ、日本文化の良さは一見わかりにくいとも言える。
わかりにくい日本の伝統美を追求することは、すでに十分すぎる情報に溢れ、物質的にも豊かな現代においては必要ないのかもしれない。
「勉強して考えなければわからない価値なんて、面倒だ」
そう思われてしまうのも、仕方ないのかもしれない。
でも、敷居が高くて何が悪い、と私は言いたい。
言語化できる、できないに関係なく、日本の伝統文化は間違いなく美しい。
千年という月日を超えて現代に残っていることが、確固たる証拠である。
本質的な価値が見過ごされてしまう現代だからこそ私たちはもっと、「本当に価値のあるものは何なのか」を問いかける必要がある。
私は本当に、これが良いと思っているのか。
社会に良いと言われているだけではないのか。
私がやろうとしていることは、世の中にどのように影響するのか。
私が良いと思っているものは、百年後残っているだろうか。
日本の伝統芸術のようなハイコンテキストで敷居が高い文化には、私たち自身がどれだけ学び、考えることができるかが試されている。
これほどにもインテレクチュアルで情緒的な文化をもつ日本人は、なんて贅沢なんだろう。
私たち日本人がつくりあげてきた伝統美は、私たちが思考を止めた瞬間に消える。考え続けることが、私たちが築き上げてきた美しさを未来へとつなぐ、唯一の方法なのである。