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レポート返しと副音声

上越教育大学の学生さんが、じゆうがっこうの見学レポートを書いてくださいました。私との対話の内容が長文で綴られています。

なのでこちらも、レポートの『副音声的な感じ』で、レポート返しをしたいと思います。

岩佐さん(学生さん)のnoteは、じゆうがっこうの保護者の方は必読です!未就学児の保護者も!
私のレポート返しは、読んでもらえたら嬉しいです。喜びます。



以下、『』内が岩佐さんの文章

『市民立ということで、学費としては無料。
お金を受け取るときは、寄付かイベント等で大人の方にワンコイン、といった形。』

よく聞かれる内容について。学費無料ではあるけれど、施設利用費(例えばプールでの入館料)などは、実費。全くお金が必要ない、という訳ではなく。そこは公立の学校と同等にしています(公教育も全て無料な訳ではない)

寄付をいただいた時はその都度必要な物に、イベントでの参加費はそのイベント運営で消費されます、残りません。



『ただの子ども食堂の意味ではなく、地域密着で学校に苦手を感じる子供達のための子ども食堂。そういう子たちにもつながりを作るための場所としても。』

つながりサロンとして運営しているこども食堂は、「不登校のつながり作り」「就労」「企業との連携」を目的に開催しています。解像度を上げて説明すると、「じゆうがっこうの集客」が目的でもあります。
ただ単に不登校の支援がしたいとか、働くことのきっかけ作りがしたいのではなく、その先に、目指すものがあります。階段が10段あるとしたら、こども食堂は3段目くらいです。



『代表者の方の考え方として、「お金を稼ぐ、自分で仕事を作る。それが幸せにつながっていく」という考え方。
 
でも、今、その幸せを作る能力は大人から欠けているのではないか、ということ。』

これは自分が15年社会に出て感じていること、10社以上の転職を繰り返しての体験談。
教育が幸せへの土台になり、就職がゴールではないこと。幸せは、急に感じるものではなく、幸せの積み重ねで感じるもの。長い時間をかけてつくられた幸せは長続きする。そのプロセスで自信もつき、思い出もできる。
幸せの土台ができていない(幸せを感じられる環境にいない、大人になるまで無理してきた、我慢を強いられてきた)ために大人になって鬱や自殺、犯罪にも繋がっていること(これは精神科医の講座を受講した際に学びました。あと実際自分に置き換えても、子どもの頃の家庭環境や学校でのトラウマを放置したことで大人になってから症状が出ている)

ちょっと違う観点から考えると
教育はABテストができない。結果が出るまで時間がかかるし(そもそも結果とは?だけど)、複数の方法を比較してどちらのパターンが良いかを比べることが難しい。
だから「日本人の幸福度が低い」という結果をみても、教育ではなく「個人の責任」になるのではないか。

もともと人は「感謝する心」「前向きさ」「主体性」「社会性」「自分らしさ」なんて持っているのに、阻害する環境をつくっておいて個人の責任にするなよ、、と思う。(主体性を育てるとかそういった類の講座やスクールを売るために、あえて阻害しているのか?とも思う)

幸せを作る能力が欠けている。それは社会的な背景(不況だったり少子高齢化だったり様々)があるかもしれないけど、本来はそれを克服するための経験を積むのが教育なのでは。
“心身ともに健康な国民の育成”を、目指しているのではなかったのか。
最近は、対症療法的に、"推し活"を利用しているような気もする。



『まず大人が幸せとはなんであって、自分はどう生きていくのかを考える必要がある、とも。
そこで、教員は、一つの幸せ、生き方のモデルとなって、子供達に実際の姿を通して伝えていく役割が果たせるのではないか、ということ。』

私はこういった対話をする際、「なんでその職に就いたんですか?」と質問する。個人的に興味があって聞いているのだけど、その職が幸せに生きることに、どのように関わっているのか、を聞きたくて。
広く言えば、死生観。死を迎える時に、人生を振り返ってどんな風に感じていたいか。もちろん後悔することはあるだろうけど、できるだけ後悔しないように働けているのか、目的はあるのか。

「先生になりたい」と思ったのは、なぜか、自分の人生の目的達成は”先生”じゃないと本当にダメなのか。
そういった疑問を持つことが、自分で仕事を作ることに繋がっていたりします。

岩佐さんの『生き方のモデル』という言葉、私で言えば挑戦し続ける姿を子どもにも、大人にも見せることで、幸せを伝えていけるのだと感じている。
・教育の選択肢を増やすことへの挑戦(じゆうがっこう)
・資格や肩書きではなく当事者に価値をおく社会づくりへの挑戦(親の会や相談業務)
・寄付の文化づくりでの挑戦(つながりサロンの活動)
など。

困難を克服する姿を見せられるか。自分が挑戦し続けているからこそ、子どもたちの挑戦に共感できる、努力してきたプロセスに注目できる。
子どもたちが挑戦することで、こちらも勇気づけられる。存在に感謝できる。対等感が生まれる。



『瀬戸ツクルスクールでは、公立の学校に通いながら来ている子はほとんどいなかった。
逆にじゆうがっこうに来ている子供達は、学校に通いながら、時々こちらに来る、という子がほとんど。』

市民立に変更当初、公立校との併用は無しで、人数が少ない場合は休校、で動いたのですが
結果、やはりうまくいかず。結果というにはまだ早いのだけど、自分にできることと地域的な問題、市民の価値観など考慮し、今は「時々給食だけ食べに行く子」や「1限だけ学校へ行く子」など、一般的に不登校の枠組みに入らない子が通ってくれている。

でも自分の中では、公教育から溢れた子の受け皿にはなりたくないこと(それは公教育と同等ではないと感じるので)と、教育の選択ができる長岡市を目指している。なので「じゆうがっこうは不登校の支援を目的にはしていない」「一般的なフリースクールとは違う」と伝えている。
実際受け皿として使われていることもあるのかもしれないけど、こちらがしっかり目的を持ち、教育が選択できる街になるためのステップアップだと思えたらそれでいいのかも、と最近思っている。

やはり、昔から様々なフリースクールがあったりオルタナティブな環境がある地域と、長岡市は違う。
ここで違うと言い切るのも、極端で良くないかもしれないけど。

なので、じゆうがっこうの目指すところはツクルスクールのように公立校と併用無し、なんだけど
今はそこに向かう途中の段階、というのが分かりやすいかも。



『子ども食堂での取り組みについては、引きこもりの方がボランティア等に参加してくれる機会を作ることで、人とのつながりを生む。
 
そういった、人とのつながりを、多様な年齢層で提供していることがわかりました。
 
確かに、教育や地域の問題を考えていく上で。
単純に不登校の子どもたちのことを考えていくだけでなく。
どれだけ多くの方が地域に参加しているのか、ということも考える必要があるのか、と新しい視点を持ちました。』

不登校だけを断片的に考えることはできなくて、やはり全て繋がっている、という観点。
そのためにはコンテンツをたくさん作って、いろんな人を巻き込んで、教育に関わる理由をつくっていくこと。
その中の一つが、食で関わる、こども食堂。



『子供達に多様な選択肢が用意されていて。
また、選択したくなったときに行き来することができるようなそんな教育がある社会。』

社会的には、そういった選択肢への需要はあるように思う。
私の個人的な意見としては、その方法で運営をしていくことは「説得力に欠ける」というか。
PDCAを回せない、というか。(計画、実行、評価、改善)
そもそも今の社会でも選択肢はあるのだけど、対等な選択肢ではなく、対等にできるよう理論づけるためにスクール運営をしている、というか。
この件は私もまだ実行件数が少ないので、なんとも。

ツクルの一尾さんが言われている「適切な数の選択肢」、あとは選択肢があっても自己決定する力が失われていれば意味を成さない、と思う。



『公教育内でのルールの話も出てきて。
廊下を走らない、はなぜ存在するのか。』

否定語での指導の話は、いったん置いておくとしてw
大人がルールの理由を話せるのはもちろん大切だけど、
『選択の機会と、それによる成功と失敗の経験が、自分が主体的な行動をとる機会を増やしていってくれるように感じます。』

という岩佐さんの言葉に、全てが詰まっている気がする。
結局ルールを守る当事者が、ルールをつくり、実行して評価をし、またルールを改善していく。自分ごとにできていれば、大人が指導する必要もなく、説明する必要もなくなるのでは。


『じゆうがっこうのアンケートも、『自己決定』に基づいた内容項目になっていました。』

学期ごとの評価シート。市の教育理念をもとに活動してきて、今自分はどうなのか評価する。通知表のように大人に評価されるのではなく、自分で。




まとめると、やはり教育が選択できること、自己選択できること。その選択肢は必ず対等でないといけない。
お金に余裕があるからとか、家族が送迎できるからとか、そういった条件が付くのであれば今の社会と変わらない。

私がじゆうがっこうを運営する目的は、表面上の選択肢を増やすことではなく、本物の選択肢をつくること。学習指導要領が土台にある”箱”の選択肢ではなく、居場所のような場所の選択肢でもなく。教育の、選択肢。

そして、こういった学びの機会を与えてもらうこと。本を読んだり資格を取ったりだけでは到底習得できない思考回路を、子どもたちから、関わってくれる方々から、学ばせてもらっている。


考えることは面倒だとか正解が分からないとか、よく言われるけど
人生って思い出づくりみたいなものなのに、余裕がないとか面倒だからって理由で考えないのはある種何かに洗脳されているように見える。

日々楽しく、思い出づくりしていきたいですね。


今回は、振り返りを引用させていただくという身勝手なお願いを、ご快諾いただきありがとうございました!

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