【鼻息の荒い電話】
私は知的障がい者の入所施設に勤務して20年ほど経ちます。
もともと福祉の分野そのものにさほど関心はなく、この仕事に就いたのもなんとなくでした。
それまで知的でも身体でも、障がいのある方と大きく関わったことはなかったので、多少なりとも不安はありました。
初めは事務の臨時職員でした。
古い建物。
まだ携帯電話もそれほど普及していない時代。
施設入所者500人、職員200人という大所帯の施設で、外線の電話回線は3つだけという衝撃の現実がそこにはありました。
ちなみに時代は平成です。
臨時職員の私の仕事は、その電話の取り次ぎでした。
事務所の真ん中にある大きな柱に電話回線のルーターのようなものがあり、ランプが3つあります。
そのランプが3つとも点灯しているとすべて使用中。
電話がかかってくることはありません。
あとはコピーやお茶出し等、のんびりとした仕事でした。
ときどき、鼻息の荒い電話がかかってくることがありました。
事務所前に公衆電話があります。
そこから、ある施設利用者さんが事務所に電話をかけてくるのです。
事務の窓口は私ともう一人の女性、主に2人で電話の取り次ぎをしていたのですが、その利用者さんはもう一人の女性とお話がしたかったのです。
すぐそこにいるのに、直接話すのは照れてしまってできない。
だから電話をかけてくるのですが、電話で何をどう話せばいいのかわからない。
そして目当ての女性ではない私が電話に出ることが多く、どうすればいいのかわからなくなった彼は鼻息を荒くするしかありませんでした。
すぐそばの公衆電話。
直接どうぞと声をかけても、鼻息が荒くなるだけでした。
ときどき直接窓口まで来ることがありましたが、そんなときの彼は顔を手で隠しながらちらちらと目当ての女性職員を盗み見ては照れて笑うという
小さな子供ならとてもかわいらしい仕草を惜しげもなく見せてくれました。
そんな彼は当時40過ぎのおじさん。
言葉で表現することはできないけれど、純粋に はにかんで照れている姿。
なんだかかわいらしくて可笑しくて
これから関わっていく『知的に障がいがある人』に対し、変な不安はだいぶ和らぎました。