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身体と思念の断絶・菅義偉さんの挨拶・この国の病理

家族や友人たちと言葉を交わすときに、自分の言葉が自分の本心から乖離していると感じる…皆さんも多かれ少なかれこういう経験はあるのではないでしょうか。

そんなとき私は、タイミングやその重さは違えど「あ、まずいな…」と思います。
まずいから、口をつぐんだりする。
まずいとわかっていても勢いに任せて話し、後で後悔したりする。
とにかくその”まずさ”を放置すれば、遅かれ早かれ他者とのあいだや自分の中に「よくない気」が満ちて最悪の場合大きな失敗が発生することになったりします。


心にもないことを言ってしまうのは、一体どういうときでしょうか。

・会話を交わしている今この瞬間に集中できないほど他の何かに頭の中が追い詰められているとき。
・自分の中で、会話の進み具合についていけないほどもやもやした思考が残ってしまっているとき。
・相手からの攻撃に対してとっさに、言葉の整合性もとれないまま防衛したとき。
・あんまり話したくない話題を、小手先の知識でどうにか切り抜けようとしているとき。

ぱっと思いつくのはこんなところ。


心にもないことを言ってしまうのを避けるためには、常に自分の身体と思念の状態を”わかって”いる必要があると感じます。大体でもいい、少なくともわかろうとする必要がある。
”心にもない”というのは文字通り、自分に存在しない考えを発してしまうようなことが起きた場合に使う言葉です。
どうすれば心にもないことを言ってトラブルを巻き起こすことを避けることができるか。
自分とは身体と思念のくっついたものと言えるので、自分と言葉がずれてしまうことを防ぐには、当然、自分の身体の存在と思念の状態をきちんと把握していることが大切になってきます。

さらに重要だと思うのは、初手で思念の状態をジャッジ(判定)するのではなく、一旦”認める”姿勢を持つことです。”わかる”というのは、否定も肯定もせずまずはそれを受け入れること。反射的に自分でジャッジを下さないのが大事。
まずは受け入れ、そのあとでいろいろな角度からそれを確認してみる。確認したら、初めて今度は知識や経験、他者からの話と照らし合わせてジャッジします。そして、その考えに至った自分を振り返ったりしたあと、言葉にして発するかどうかを選択するわけです。

私たちは言語を使った他者との交流の中で、常に、無意識のうちに、このプロセスを縮尺を変えながら適用しています。双方向の会話ではなく、スピーチや歌だったとしても、これは発生しているのです。
そして自分がその場や他者に対して心を開けているかどうかが、プロセスに意識を向ける必要性の有無に直結しています。リラックスしていれば無意識でこのプロセスをスムーズに経ることができ、そうでなければプロセスの順番を間違えてしまう。間違えたときに出た言葉は心にもないものになり、その言葉は他者との関係にひびを入れたり、自らの発言から自分の浅はかさを知ってしまって、自分に失望せざるを得ない状況を招いたりするわけです。
常日頃から心にもないことを発言し続けると、人は自分の中に断絶を抱え続けることになります。それは他者との断絶よりも重く苦しい状態です。しかも心ある他者との会話もうまくいかなくなってくる。そして人は精神を病んでいく。


私がこんなことを思ったのは、2021年8月6日・本日の平和記念式典における日本の首相・菅義偉さんの挨拶を見たことがきっかけです。

NHKなどでは毎年、式典の様子を生中継していますね。細かなレギュレーションの変更はあれど、毎年平和記念式典では様々な人たちが前に出て、それぞれの立場から過去に起きた戦争を振り返り、解釈し、各々の言葉で決意の宣言を行います。

冒頭は広島市長が、過去と現在の様々な情勢、未来への願いを慎重に編んでスピーチにまとめたものを宣言しました。被爆都市の市長の宣言、そこに政治的な思惑のようなものがあるかどうかなんてことが例年話題にされますが、正直私にとってはそんなこと知る由もありませんし興味もありません。背景はどうあれ、間違いなくこの日に向けてきちんと考え抜いて選んだであろう言葉が、おそらくは覚悟を伴って発せられます。その発言自体が間違っているか正しいかを判断する以前に「戦争と平和について、人々の未来について考え、真摯に向き合ったひとりの市長(ひとつの都市)による決意」がそこに聞こえてきます。

本年は次に小学生の男女が登壇しました。彼らが生まれる何十年も前に起きたことを学び、おそらくはその年齢で見聞きするにはショッキングであったはずの事実から目を背けることなく解釈し、多くの大人たちの厳しい指導やアドバイスを受けながら、あくまで本人たちの目線から必死に紡いだであろう言葉を「平和への誓い」として宣言。その言葉には、純粋で誠実な決意が輝いていると感じました。きっとこの時のために、この宣言をたくさん練習したであろうことは一目瞭然です。そこから、打算のない、とても素直な気持ちが伝わってきて、正直涙が出ました。今この瞬間、不自由なく生きられることに感謝し、この気持ちを忘れずに日々を生きたいという、自然な人としての思いが、聴いているこちらの心に透明で美しい形をして存在を現してくるようでした。


それから、菅さんが登壇します。

原稿を持つ手は震えています。
冒頭から何度もつっかえます。
広島も読めません。
原爆を読めず、原発と発音します。
常に原稿を見ていますが、間違えずに読むことすらままならない様子です。
とにかく目が泳ぎます。
発言と発言の間(ま)は、原稿を視認することにのみ使われ、人に伝えるための音読レベルにすら至っていません。
コロナウイルスに関する内容を話すところでは、やたらとすらすら読みますが、その速度は逆に、言葉が彼の口から出ているというよりは、彼のポジションの呪縛から発せられていることを感じさせます。
さらに、あろうことか原爆投下後の広島の町を「廃墟」と表現します。(※後述)

皆さん既にニュースなどでご存知かと思いますが、このあと彼はおそらく原稿を1行か数行、まるまる読み飛ばします。
文の途中で別の文が途中から始まっているため、その内容はおよそ日本語の体をなしていません。
文章自体も、意味も破綻しているにもかかわらず、彼は相変わらず同じ調子で原稿を音声化し続けます。
状況的には酩酊していると思われてもおかしくありません。


ちなみに読まなかったのは

…核兵器のない世界の実現に向けて力を尽くします」と世界に発信しました。我が国は核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり…

といった内容の部分です。

彼はおそらく本当に核兵器の非人道性など理解していないし、する気もないのでしょう。
それは「廃墟」という言葉の選択でも明白です。
廃墟というのは”人間が意図して去った場所の果て”にあるものです。
原子爆弾が投下された広島は、少なくともその言葉で表せる類のものではありません。
これが一般人のブログやツイッターならば、いちいちこんなに指摘することでもないかもしれませんが、日本の首相が全国で生中継される式典において、ガサツで繊細さのかけらもない、たいして時間をかけたとも思えない原稿を読んでいるということは、細かくても指摘せざるを得ません。

そのあとの挨拶中も、彼の視線は原稿と自分の少し前を彷徨い続けます。
内容も、上っ面だけの社交辞令で、挙句の果てには自らの手柄を誇示する内容です。
軽薄で、誠実さのかけらもない、なぜか怯えたように震える日本の首相の、完璧すぎるほど空虚な挨拶でした。
いや、うわ言でした。
この国に住む人々の現在と未来に、責任を持つ立場からの発言とは到底思えません。

私は彼に恨みなどありません。怒りもない。
むしろ、ありとあらゆる感情が1ミリも沸いてきません。
私には彼が壊れたロボットに見えました。
なるほど、国のトップは、戦後76年が経過しても人ではなくなってしまうものなのかと、妙に腑に落ちました。


だんだん、彼の姿を見ていると、”可哀そうな状態”の人だという感想も沸いてきます。冒頭の話につながりますが、彼は終始、心ここにあらずで、肉体から上滑りした、もはや言葉ですらない「音声」を延々発しているように見える。震えながら。

私には彼が何かに怯えているようにすら見えました。何に怯えているんだろう。人前に立つことで自分の中の何かが人に見透かされ、批判の的となることを直感的に恐れて怯えているんだろうか。少なくとも落ち着きや、心を開いて人と向き合うような雰囲気は、彼の姿から微塵も感じ取れません。


平和記念式典の正式名称って何か、皆さんご存知でしょうか。

広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式

これが正式名称です。

”平和を記念"する式典だと勘違いしている人が多そうですが、この式典は文字を見てわかるように、亡くなった方々を慰霊し、平和を祈って念じる式典です。その式典に参加するということは、祈って念じたいという気持ちが少なくとも必要だと私は思います。あるいは気持ちがなくても、登壇して話すのならば、そのふりをする必要はあると思う。でも彼の原稿にも、話す姿にもそのようなことがわかっている様子は見受けられない。

わからないなら出る必要がないどころか出ないほうがいいのに(出なかったことを文句つけられるぐらいなら出ようと思っているのか何なのかわかりませんが)出て、あのような発言をするのは、ものすごく自己中心的なことですよね。
しかしもっと闇は深いと思う。真に自己中心的で、そう振舞うことが彼の目的なのであれば、震える必要がないはずなんです。それなのに彼があの場で震えているのは、やはりそもそも「自己の内部に断絶を抱えたまま、何にもピントを合わせることもできず生きながらにして死んだように行動しているから」なのではないでしょうか。
それを私は”可哀そうな状態”と言っています。

たとえば仮に、彼がもともと吃音気味だったり、話すことが苦手な人なのだとしたら。それならばスピーチは誰かに代読してもらえばいい。彼が伝えたいことの原稿を書き、AIなりなんなりに読んでもらうといい。総理大臣の仕事はスピーチを上手に行うことだけではないと思いますから。だけど、前に立って自分で話すのであれば、それを全うするのが仕事でしょう。それは総理大臣じゃなくても、サラリーマンでも、音楽家でも、音痴だけどカラオケマイクを手にした人ですらそうです。

自己の内部に断絶を抱えたままでは仕事もままならないのです。人と人の間に立ち、そこでコミュニケーションを取りながら”人”は”人間”となる。人間同士の織り成す社会の中で価値を創造する行為が仕事だからです。そこにお金が発生すれば、それは職業となります。

そういった、仕事への姿勢ももちろんどうなのかと思うのですが、最も悲しさを覚えた部分は、実はそこではないんです。
内閣総理大臣だろうが誰だろうが、言葉が喉に突っかかっても、噛んでも、言い間違えてもいいのだけど、それをきちんとその場で言いなおしながら言いたいことを伝えようとする姿勢が微塵もみられないというのは、正直とても落ち着いて”正気で”モノを考えられている人の状態ではないように見えます。これは、彼に立ち止まって休んだり、行動を反省してみることをおすすめするくらいの状態だと思う。

極論を言えば、彼が「世界平和のためには核兵器が必要だ」と言ったとしたら、その内容自体についてはかなり怒号の飛ぶような議論が巻き起こることが想像されますが、その発言自体を撤回しろとは私は思わない。その発言には覚悟があるはずだからです。
何かを”発言する”ということは”伝える”ということ。それにもかかわらず、そこに本人の意思や決意や願いのようなものが見えないことの方が問題。
存在しないものについて発言し、伝えようとする。それってものすごく不誠実だし、不健全だと思うんですよ。

私の大切な人が、仮にその(心を亡くして自己の意思が不在となった)ような状態で日常を送っていたら「ちょっとお茶でもしよう」と私は声をかけると思います。そしてゆっくり趣味の話をしたり、一緒に歌ったりする。あるいは一緒に街を歩いて散歩したりする。そうして抱えている断絶の周囲をほぐし、自分を取り戻せる雰囲気に持って行こうとする。

彼にはそんな友人や家族や仲間がいないんでしょうか。
これは完全に私が観察した結果感じたことでしかありませんが、おそらく、そのような人が彼にはいないんだろうと想像しています。その上、自らが自らに発しているエラー(震え)にすら気付かず、自分の中に致命的な断絶を抱え続けているのではないでしょうか。本人はおそらくかなり苦しいはず。あるいは、自分が人であることを忘れているか、苦しいことにも気づいていないか、苦しみを誤魔化しながら生きているのではないでしょうか。

私は、そのような人を首相にしている国の民であることがとても苦しい。彼の挨拶を見てそう思い、泣いてしまいました。
そして私たちはおそらく、そんな彼を許すことでしか、人々が抱える闇を乗り越えることができないとも思いました。国の代表ともいえる人物の姿やありかたがどうであったとしても、それが国を表すというのは暴論だとは思います。しかしそのような人物を選んでいるのは、直接的だろうが間接的だろうが国民なのは事実です。選ぶということは肯定しているということだというのは勘違いかもしれませんが、おそらく彼は選ばれたことで自分の中の断絶も含めた自己の肯定感を得てしまっているのではないでしょうか。
間接選挙だから首相の選択までは国民の意思が届いていないというのであれば、その仕組みは国を動かす組織の在り方として正しいものだと言えるのでしょうか。

この”可哀そうな状態”の人がトップの国では、コロナウイルスやオリンピックにまつわる動きを見てみても、理解できないほどの矛盾を抱えてしまうわけだな、とも思います。
自分以外の誰かのためや何かのためを思ったり考えたりする以前に、彼は自分自身が不在のまま生きてしまっている。そんな人が、地に足の着いた政治を…いや、そもそも人との交流自体を成立させられるとは思えません。

だけど、自己の内部の断絶が激しくて破綻寸前なのは、彼だけじゃないはず。彼も相当な問題や苦難や困難を抱えていると思いますが、彼とおなじように自己の内面に致命的な断絶を抱えたまま、金や権力や快楽でそれを誤魔化して生きている…そんな状態の人たちがこの世にはたくさんいます。だから、彼が抱える断絶を理由に、国民が彼を見切ってしまうようなことが起きれば、すべての”断絶を抱える人たち”を無自覚なまま追い詰めることになる。

私は彼の友人ではないですが、もし彼が知り合いのおじさんだったら「悪いことは言わないのでちょっとお茶でもしない?」と言うかもしれない。政治家や内閣総理大臣である以前に、君はひとりの人なんだよってことを彼に伝えてみたい。そんなこと彼は分かっていてやっている可能性がないとも言い切れないし、随分とおせっかいなことなのはわかっているけど、他者とのコミュニケーションや自己の内部のプロセスのようなものがおかしくなっている様子の人に国の長を任せ続けるのって、危険だし、怖いし、ちょっと無責任なことのように思う。


どうすれば世界は平和になるのか。
生きとし生けるもののすべてが”平和だ”とわかった世界でしか、私たちは平和の意味も、そうなる方法も知ることができない。
だから、答えはわかりません。

わからないけれども、身体を伴う他者との交流の中で、私と関係をもつ隣人たちと、互いに微笑みを絶やさぬように日々を過ごすことは、平和への必須条件だと直感しています。
人と関わるのであれば、自分が断絶することなく生きていることを確認しながら、隣人もまたそう在れるように気を配る。世界を平和にするには、少なくともその自覚が必要だと思っています。そして、その数や範囲が広くても狭くても、その大切さは変わりません。仮に、すぐにはうまくいかなくても、そうしたいと思って挑戦していくことは決して無意味ではない。


私たちは、技術の進歩により地球の裏側にいる人ともすぐにコミュニケーションをとることができます。
かつて、人は自らの足で向かうことができる範囲の中で他者と出会い、関係を結び、社会を組み立てて生活していたわけですが、今は歩いて行かなくても電気信号を使って交換した情報だけで大きな社会を作り上げている。それ自体はいいことのように思います。それによって地球全体の人の関係が耕され、いつか地球全体がひとつの国になることだって夢じゃないとも思う。

だけど忘れてはいけないと思うのは、どれだけ電気信号を使いこなして遠くの人と意思疎通ができたとしても、私たちはやはり人で、身体を持ち、その身体は完璧には電気信号に乗せられないということ。

思念が身体を失うことを私たちは死と呼びます。
身体と思念の断絶は、ほとんど死と同義です。

そして身体のありかの確認は、自分以外の身体の存在を認識することによってのみ可能です。
他者との身体を伴う(オフラインでの)交流だけが、自分の存在を確かめることにつながる。
そして身体は身体の領域でしか満たせない。
自分の中に断絶を生まないための、思念と身体を繋ぐ努力と、その身体を他者(あるいは自然など)との交流で確かめ互いにそれを尊重するよう努めることは、人としてお金を稼ぐことよりも手前にある重要な営みなのではないでしょうか。

平和教育という名目で、広島と長崎の子どもたちは、トラウマを抱えるほどショッキングで悲惨な過去を学びます。心の準備をすることなく映像や資料を目の当たりにします。

そして、成長して他の都市に出るまで、それを学び、祈り、年中”平和”という単語が町にあふれ続けるのが、自分の生まれ育った町ぐらいであるというのは知らないことがほとんどです。

生まれ育った場所を出たあと、夢に見るほどのトラウマを与えた教育を恨む。生活レベルで染みついた祈ることへのスタンスの違いで口論となり、当人もその友人も傷つき、こんな世界の何が平和なのかと捻くれる。植え付けられてしまった平和至上主義は、裏を返せば戦争至上主義であることに気付き絶望する。純粋に平和を希求する正義などこの世に存在せず、あるのはただ欲にまみれた大人のドロドロした世界だと知って希望を見失う。
これらは、長崎市で被爆3世として生まれ、平和教育を受けて育った私が直面してきた現実です。

強烈なショックでトラウマを植え付ける平和教育や、毎年決まった日の決まった時間に祈りをささげることが、平和に繋がるなんて思えなくなります。そこで育つあいだ、どれだけ本気で祈り続けても、人は人を殺し続けることをテレビのニュースで知る。そのギャップは常に、あの町で育った子どもたちの心にどこか影を落としている側面があるとも感じます。過去の異常な出来事を、怖いから見ないという判断や防衛すらできない子どもに過剰に見せつけて、核兵器を恨む心を育てることで平和を実現しようとするというやり方は、理解に苦しむ。強烈なショックを受けたとき、人は本能的に意識と身体を切り離します。つまりそれも個人の中に断絶を生む行為です。いっそそういう平和教育はやめにして、現在の自分と、その周囲の友人や家族の笑顔を絶やさない努力をすることの大切さと、その方法を考えることに時間を使うべきだとすら思っていました。

しかし、今回この式典を見て、私はやっとその意義に気付くことができました。ちょっと悲しい意義の見出し方ですが、誰かが苦しみ悲しんだ過去に想いを馳せて、今ある幸福な事実に感謝しそれを言葉にして祈りを捧げるという行為を、その日のその時間だけ登壇していながら出来ない人はおよそ正気ではないということが一目瞭然になる。その瞬間、町全体の時間が止まるような祈りの姿勢をずっと維持してきたことは、死者と未来への祈りだけではなく、現在、国民を支配している影の存在を見出すことにもなったなと。

だけど私はそんな”正気ではない日本の首相”のことを隣人だと思わないといけないと感じています。菅さんも、国民のことを隣人だと思う必要がある。互いにそう思い合えない国が、幸せを共有できる国になるとは到底思えない。批判し、潰し合うのではなく、そこに見出すことのできるこの国の病理と向き合っていかなくてはいけないということを、感じました。

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