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メンヘラ哲学~自由って結局何ですか~

こんにちは。

高校3年生のyurazaburoと申します。プロフィールにもありますが、ずっと鬱で悩んでいて、最近回復し始めました。

現役JKである私、病んでいる間は「メンヘラ」というレッテルを貼られがちでした。恋愛にかなり依存していたので、我ながら妥当な通称だったと思います。
ということで、ここでは「メンヘラ」という言葉を「精神が不安定なために恋愛に強く依存している状態」と定義したいと思います。

そしてこの記事では、私がメンヘラになり、メンヘラとして過ごし、メンヘラであることを自覚してそこから抜け出すまでの過程で考えた、“メンヘラだからこそ気づける自由についての哲学”を語っていきたいと思います。

メンヘラから抜け出せなくて困っている方や、哲学的な「自由とは何か」という問いに興味がある方はぜひ、お付き合いください。

メンヘラ当時の恋愛観

始めに、私が一体どんな恋愛をしていたのか説明したいと思います。自由とは何か、という議論のみに興味がある方は【結論】と書いてある項目まで、読み飛ばしてください。

まず、彼と付き合いたての頃の私はそこまでメンヘラ化していませんでした。前に付き合っていた人から降られたショックが残っていたので、「どうせいつかは好きじゃなくなるくせに」と、むしろメンヘラとは真逆の冷めたマインドを持っていました。

しかし、付き合い始めた彼が想像以上に真摯に接してくれる人で、「この人が言うことなら100%信じられるかも」という気持ちに変化しました。気持ちを伝えるために丁寧に言葉を重ねてくれるところ、「いつかこんなことしたいね」って将来の話をたくさんしてくれるところ、私の本音を引き出そうと常に努力してくれるところ。彼の態度は私のドライな気持ちを潤すのに十分でした。

そのころ私は、日常生活での疲れや、自分の性格に対する劣等感で精神的に疲弊していました。自分で自分を認められず、他者からの承認を心底欲している状態だったのです。

そんな私が彼に依存するのはあっという間でした。

メンヘラを発症したきっかけは、受験生になったことでした。ともに同じ難関大を志望していた彼と私は、会う時間を減らして、勉強に集中する必要があったのです。

でもここで、私の感情は激しくNOを突きつけました。帰り道で、よく寄り道した公園を通り過ぎる時に泣いてしまったり、別れ際には嫌がってまた号泣したり。勉強しなければならない時にも、会う時間を無理やり増やそうとして、彼を困らせました。

さぞ、迷惑だったろうと今では思います。でもその時は、どうしてこのさみしい気持ちに彼が共感してくれないのだろう、共感してくれさえすれば満たされるのにと、不満な気持ちでいっぱいでした。

決定打は、彼の進路選択に対して否定的な態度をとったことでした。同じ大学を目指していたはずが、別の大学を志望するかもしれないと告げられた時、私から出てきたのは応援の言葉ではなく否定の言葉だったのです。

そうして、彼はもう文字通り付き合いきれないと思ったのか、私に別れを告げました。しかし、彼は最後まで言葉を尽くし、なぜこのままじゃいけないと思ったのか、説明してくれました。次の項目では、この“最後の対話”で、私が何を思ったかをつづりたいと思います。

別れ際に考えたこと

彼が私と別れたい理由を挙げた中で、一番印象に残ったのは「お互いにとって今の関係が重いから」でした。

実は、別れ話をされる少し前から、彼は私が依存していることを諫めてくれていました。進路を決める大事な時期に、他人を判断基準の中心に据えるのは間違ってる、もっと自立した選択ができるようにならないといけないよ、と。

別れ話の最中、私はそう言われていたことも踏まえて、もしかして自分はようやく、自由になれるのかもしれないと思いました。

もちろん感情に任せれば、別れるのは嫌でした。でも、ここ数ヶ月、私はそうやって、彼に対していろんなことを嫌がってきました。だから、最後くらい、理性的な態度でお別れしたいという気持ちが強く、一生懸命涙を押し殺し、どうにか前向きなことを考えようとしていました。

その結果、辿り着いたのが、以下の結論です。

彼の言う通り、私がメンヘラと化している間、私の判断はすべて彼を軸としてなされていました。彼が同じ大学を志望しているから志望する、彼が勉強しているから勉強する、彼がストイックに過ごしているから、自分も見た目を質素にしてストイックに頑張っているふりをする。志望校を選ぶとき、勉強するとき、服を選ぶとき、髪を切るとき、私が何かを決めるとき、選択の理由は常に彼でした。私にとって、メンヘラするということはつまり、自分の決定権をすべて放り投げて、自ら不自由になるということでした。

したがって、彼と別れれば私は自由になれる、これは私が自分の足できちんと立つ契機なんだ、私はそう自分に言い聞かせました。高校入学以来、彼と付き合う前から精神的につらくて鬱々としていた中、やっと自分は変われるんだと思いました。

この気持ちが、その時の私に適切なものだったのかは正直分かりません。感情を押し殺しすぎたことが、のちのうつ病の発症につながったからです。でも当時はそれが、別れた悲しみに飲み込まれずに前に進もうとする原動力になりました。

【結論】自由とは何か

私がメンヘラ経験を通して実感したのは「自由とは欲望に抗うことである」ということです。

一見、欲望にしたがって生きている人の方が、そうじゃない人よりも自由に見えることもありますよね。目の前のケーキを我慢する人より、我慢せず食べてしまう人の方が、自由奔放にふるまっているように見えます。

でも、本当にそうでしょうか。

ケーキを躊躇なく食べてしまう人は実は、欲望に支配されているだけとも言えます(もちろんシチュエーションにもよりますが)。世の中、たいていのことには一定の法則があります。リンゴは木から落ちるし、太陽は昇って沈むし、お腹をすかせた動物は餌をむさぼります。

欲望に支配される人、それは、世の中の法則に組み込まれた、不自由な人です。メンヘラだった私はまさに目の前のケーキをとにかく食べようとする、不自由な人間でした。それでは動物と同じですよね。人間である以上、私は欲望に捉われずに自分の理性で選択する“自由”を、持っているはずでした。メンヘラって、その自由を完全に見失った、不自由な存在なのだと思います。

したがって、自由とは、目の前の欲や感情に対して、抵抗する能力をちゃんともっていることです。メンヘラから抜け出した今、私は明確にそう思えます。

今、メンヘラを抜け出せずに苦しんでいる人に

ここまで結論を述べましたが、最後に、現に「目の前の欲や感情に対して、抵抗する能力」を失っている時、つまり”メンヘラ化”している時、どうすべきなのか、私なりに思うことを書き添えたいと思います。

まずは「休むこと」です。私が思うに、そこまで欲や感情を制御できないメンヘラさんは、多くの場合精神疾患を患っている場合が多いと思います。執着しているもの(私の場合は彼)が直接の原因だと思いがちですが、生活環境(規則正しい生活など)や自己肯定感などにも、目を向けてみてください。執着の対象以外の原因を改善することで、ぐっと楽に感情をコントロールできるようになると思います。そのためにはまず、自分を追い詰めずに、落ち着いて休みをとってください。

それができたら、執着の対象から距離を置きましょう。辛いかもしれませんが、しっかり休みがとれて身体が整った状態であれば、なんとかできると思います。メンヘラの最中には彼以外何も目に入らないかもしれません。でも距離を置けば、自然と視野が広がって、他の物を魅力的に思う気持ちが戻ってきます。彼を絶対的な判断基準に置くのではなく、基準の1つとして見られるようになれば、もうメンヘラとは呼ばれません。自分自身も、ずっとずっと楽になれると思います。

今、メンヘラから抜け出せずに苦しんでいる方が、もっと自分を大切にして、「自由」になれることを心より願っています。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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