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若さについてのひとりごとっ

2月27日(火)

 結葵(ゆうき)と申します。

ひとをまだまだ若いと揶揄しながら、自分はまだ老いぼれていないと鼓舞する。



 僕は’99年生まれの24歳。世間的にはまだまだ若い。自分でもそう思う。色々と若い。何をしても説得力に欠けるだろう。青二才。芦田愛菜ちゃんの語りに妙な説得力を感じるのは、彼女が若くて若くないからだろう。歳を重ねるとは落ち着きが増していくことのようにも思える。いつまでも感情の起伏が激しい大人は若い。いや、この場合は幼いになるのか。幼いやつは若く見えるだろうが、若いやつは幼く見えるだろうか。

 いずれにしてもそこには説得力がない。でも若さというのは厄介で、妙に説得させたい気分にさせる。人の役に立ちたいと思うのも若さで、自分は有能だと示したくなるのも若さで、話を聞いてもらいたくなるのも若さ。純粋無垢だが、かなり必死でもあり、言いたいことが言えるようになって調子づいていながら、決して十分に満足しておらず、また満足することもない。


 シャア・アズナブルは死ぬまで若いままだったのである。ジオン・ズム・ダイクンの提唱したニュータイプ理論を必死で抱きかかえ、自身もニュータイプであることを自覚し、ララァに恋をし、自分と同じかそれ以上のニュータイプであるアムロ・レイに嫉妬した。ブライトやエマ、シロッコやハマーンと対峙する中で、一度は自分の若気の至りを反省し、大人になるべきなのではないかと葛藤し、わずかな希望を頼りに地球圏の人間に向けて言葉で語りかけた。話を聞いてもらいたかった。だがしかし、人は聞く耳を持たず、若くして成熟した「大人な」思想の持ち主であるニュータイプ、カミーユ・ビダンですら、結局は精神を崩壊させてしまうさまを目の当たりにし、絶望する。
 その後は、かつてのララァとのように純粋な恋をすることはできない。私には行く末が分かる。だが人は変わらない。変わろうとしない。地球の重力に魂を惹かれた愚民どもを説得することはもはや無意味だ。ならば教えてやろう。そう決意して地球にアクシズを落とす。
 アムロは違った。シャアのように若くはなかった。彼からは必死さが見えない。アクシズを止めるときだって「たかが石ころひとつ」なのである。彼は自分の話を聞いてもらえないことの苦しさを知っている。人はそう簡単に分かり合えないことも知っている。だが同時に、どうすれば分かりあうことができるのかも知っている。そしてそれが途方もなく困難で、ほぼ不可能に近いということも。ある意味で、冷めている。冷めていながら、希望を見出している。可能性は低いが、だがそれに賭けるしかない。シャアは情熱的だった。死してなお、シャアの姿はミネバによって「情熱的な男」として描写される。「私の知っているシャア・アズナブルは、人の可能性を信じていた。」


 人に自分の話を聞いてもらいたい。自分の話は、聞くに値するものだと思いたい。だから聞いてほしい。見てほしい。私、こんなに頑張ったんだよ。いやいや、こんなところで立ち止まってちゃいけない… もっとストイックにやる。高みを目指すんだ。トップに立つんだ。成功するんだ。努力している人はやっぱり違うなぁ。私は何にでもなれる。やりたいことは何でもできる。私の人生はここからだ。まだまだ終わっちゃいない。もっと頑張るんだ。私ならもっと頑張れる。

 いつからだろうか。テレビのコマーシャルがあくせく働くことや頑張ることを輝かしく描写するようになった。「俺たち、まだまだだろ。」とか「頑張るすべての大人に。」とか。
 勝手にやっててくれと思うのだが、どうも若い人たちはエネルギッシュでストイックに頑張る人たちを称賛するみたいだし、そういう人間になる努力をしていない人を少々下に見るような目をするのは勘違いだろうか。
 母方の実家には、行くたびに新しい壁紙が貼られている。何かの標語なのか教訓なのか知らないが「人間のうちで最も惨めなのは、する仕事のない人のことである。」と書かれたものを見つける。バカじゃねぇの。と思いながらトイレに行く。


 生憎だが僕の好きな映画に「マイ・インターン(原題:The Intern)」というのがある。なぜ生憎なのかというと、これが仕事を頑張る人たちの映画だからだ。仕事を退職し暇を持て余した70歳のベン(ロバート・デ・ニーロ)が、アパレル会社がシニア世代を対象としたインターン生を募集しているという広告を見つけて応募したところ、社長ジュールズ(アン・ハサウェイ)直属の部下として採用・任命される。本当はこの企画に乗り気じゃなかったジュールズに最初は相手してもらえないのだが、現役時代に培ってきたスキルを活かして自ら行動を起こし続けることで、徐々に同僚たちや社長の信頼を得ていき、社員の一員として会社に貢献する。

 この映画が日本で公開されたのが2015年らしいが、僕が初めて見たのは2019年である。それからことあるごとに繰り返し見ていて、もう20回くらいは見ているだろう。ベンがインターンに応募してから、社内で数回に分けて個人面接を行うのだが、その最後の面接相手がこんな質問をする。「Where do you see yourself in 10 years?」—— 10年後の目標は?といったところか。この質問はインターン生が来るたびに質問しているらしいが、ベンの場合は70歳なので、この手の質問はそぐわないといって無かったことにする。
 まぁ確かに考えてみれば、70歳の人に向かって80歳になった時の仕事や人生の目標は何ですか?と訊くのは鬼畜を極めている。いくら「人生100年時代」などと言ったって、100歳になるまで目標を持って快活に生きろなんて言われる筋合いはない。「長生きしてね」だの「いつまでも健康に」だのは、言うは易しであって、できるなら放っておいてほしいと心では思っている人も少なくないはずだ。

 だが昨今の日本ではあり得ない話ではなくなっている気がする。人手不足が常態化しているなか、健康食品のコマーシャルや、バラエティの健康特集なんかでは、65歳や70歳、80歳になってもまだ働いている人に向かって「80歳になってもまだまだ現役!」などと持て囃してテレビのネタにする。
 何も、定年になったらおとなしく引退しろと言っているわけじゃない。本人がいつまでも仕事を頑張りたいと思うなら好き勝手やってくれという話で、居場所や生き甲斐が欲しくて働き続ける人はいくらでもいるだろう。実際この映画でもそういう風に言われている。だがそれを「いつまでも元気に末長く頑張ってください」などと言うのは、傍からは応援に見えても内実は狂気の沙汰としか感じようがない。
 「老いる」ことに対してもネガティブだろう。死ぬのが怖くて仕方がないのかもしれないが「健康の秘訣」やら「美の秘訣」やら「いつまでも若々しくいたい!」などとうるさい。「老いる」のと「朽ちる」のは違うだろうに。


 なぜこんなにも「若い」ことに囚われてしまうのだろうか。いつまでも若々しく、元気で健康にいたい。それはそれでいいことだろう。ショーペンハウアーも『幸福について』の中でこう言っている。

(…)特に健康は、ありとあらゆる外的財宝にまさるもので、ほんとうに健康な乞食は病める国王よりも幸福である。申し分のない健康と恵まれた体質から生まれる、落ち着いた朗らかな気質、明晰で物事を生き生きと鋭く正しく把握する頭脳、節度ある穏やかな意志、ひいては曇りなき良心、こうしたものは、位階も富も取って代わることのできない美点である。

ショーペンハウアー著 鈴木芳子訳『幸福について』光文社古典新訳文庫

 ただ、ここで良し悪しが比べられているのは富や地位の追求である。そりゃ当然だ。使っても使い切れないほどに有り余るカネも、病に伏して動けないのならいくらあったところで宝の持ち腐れである。それが権力だろうが地位だろうが同じである。

 だがここで話したのは、純粋な若さの追求と、執拗なしがみ付きである。色々なことをいつまで経っても決して諦めないのが若さであり、それは一般的には良いことであり輝かしい生き方だとされているが、諦めなければ夢は叶うだとか、頑張るだとか、やればできるだとか、そういう、結局何を言っているのか分からないし、具体的なことは一切合切教えてくれなくて、肝心なところは「自分で考えろ」という理不尽で途方もない無味乾燥な言葉遣いに振り回されたくはない。こっちはそっちが好き勝手やるのを放っておいてやるから、頼むからこっちに構わないでくれ。

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