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書くことは他者と繋がる強く優しい方法
書くことは私の心の反復練習の様な気がする。
書くことで自分の行動や、その時の心の動き、どういうことにつながったのかを整理していく、心と記憶の整理整頓作業。
自分に自信がなくて、壊れそうな心にセロハンテープを貼っていく作業の様な、ばらけた心のパズルを組み立て直す様な、そういう作業。
書いていくうちに心がまとまってくるし、本当はどうしたいのかが見えてくる。
まるで言葉の方が私をじっと観察しているみたいだ。
私がどう綴るのか、文字が待っている気がする。
結局どうしたいのって。
そっと、何も言わずに耳を傾けて見つめてくれている。
だから、なんだか心の中の全部をあなたに預けてもいいのかもしれないと手が自然と文字を綴っていく。
どんな不安や不満も、愚痴や人に言えないぐちゃぐちゃとした黒い感情も、文字はしなやかに受け止めてくれる。
高ぶった感情も、綴っているうちに穏やかになっていく。
書くことで心の隅でいじけている自分を発見できたり、自分の至らなさを見つけられたり、見合っていない自己評価を再検討できる。
書くことで自分を俯瞰してみることができる。
無意識に思っていること、今考えていること、何を感じているかを手が赴くままに綴っていると、私の知らない私が待っていることもある。
書くことで、その時その瞬間の感情を写真のように切り取っておける。
あとでこういう感情だったと再確認ができる。
一対一、対面で誰かと話す時とは違う、取り繕っていないありのままの自分。
文字の中に、素顔の私がいる気がする。
生きていくうちに乗せられていく役割や肩書き。
それらを全てとっぱらった、生まれたまんまの私としてだけの私。
それが文字の中で生きている気がする。
だから私は書くことが好きなのだと思う。
斜めから見た自分、後ろから見た自分、正面から見た自分。
多角的に自分を見ることができる。
これから先も私を生きていくために、書くことで私を知っていきたい。
識字率の高い日本では、文字を書くことは誰にでもできる一番簡単な自己表現の一つだと思う。
また、文字が書けなくとも、向田邦子さんの「字のないはがき」の妹のように、⭕️や✖️を描くだけで、体調や感情を伝えることができる。
何かを書くということは、自分の内側にあったものを外へと出すこと。
絵でも、文字でも、何かを書くというのは自分というものを知り、形成していく上でとても強い核になりうると思う。
自分の中にしかない物語や言葉の並びを書くことによって、現実世界に産み落とす。
そうすることで自分の中にしかなかったものが、他者と共有できるようになる。
私は、他者と何か共有したいのかもしれない。
私はいつも1人のような気がしていたけれど、書くことで私は1人じゃなかったと思える。
文字が寄り添ってくれる。
過去にも、未来にも、記憶にも、新しい世界にも、自分自身にも。
自分を見つめ直すことも、他者と繋がることもできる。
悲しい自分も、嬉しい自分も、不安な自分も、懐かしい自分も、好きな自分も、嫌いな自分も、どんな自分も受け入れてくれる。
今どんな自分で、どんなことを考えているのだろうと自分がわからなくなっても、そのままの自分が文字に表れていく。
無心で深く思いを巡らせる流れに私がいる。
もしかすると、瞑想にも近いのかもしれない。
過去の記憶や未来の希望、自分の内面、自分の中の物語、何にでも繋がることができるもの。
それが書くこと。
だから私はこれからもきっと、何かしらの形で文字を綴っていくのだと思う。
自分と他者に伝える手段として。
私たちが繋がるために手に入れた強く優しい方法として。