もう一度だけ歌って
「ねえ、いっつも何歌ってるの」
そう聞くと、彼女は決まってふふ、と笑う。嬉しそうに笑う。そしてまた歌い始めるのだ。
僕は彼女の歌が好きだ。内緒の話をするみたいな、その囁く声で僕はすうっと安心する。僕と彼女は小さな頃から一緒だった。幼稚園に入る前からずっと。彼女はいつも歌っていた。それが癖なのだと言う。楽しい感情が抑えられずに、ついつい口から形になって出てしまうのだ。
小学生になったばかりの頃、授業中に歌いだしてしまうことがあった。周りの子たちは笑い、彼女は顔を真っ赤にしていた。それが何度かあり、彼女はよくからかわれていた。僕はその歌が好きだったから、馬鹿にするクラスメイトたちを追い払う役割を担っていた。
歌はいつも違うメロディで、僕はどれも聴いたことがないものだった。彼女は「わたしのおりじなる!」と言った。聴くたびにまったく別の曲なのだが、彼女は必ず同じ歌詞を一節入れる。きっとそれは僕だけが知っている。
そこにいて ずっと ずっと 手をつないで―
―
僕らは恋人になった。それはたぶん中学生からだったと思う。ずっと一緒にいたから、始まりがどこだったのかわからない。彼女の「喜びの歌」は僕に向けたものになった。昔のように授業中に歌いだすことは無くなり、二人きりでいる時の特別な歌になった。映画館で突然歌いだしたときは驚いたけれど。
高校生の時、僕は一時期不登校になった。僕は中・高とバスケ部に所属していた。しかし部活の顧問やチームメイトとうまくいかず、最終的に辞めてしまったのだ。大好きなバスケットを諦め、一瞬にして世界は灰色になってしまった。
彼女は放課後、毎日僕の部屋を訪れた。そしてずっと歌を歌った。彼女はそうしながら、僕の手を握っていた。それは暗い部屋に置かれた一つのろうそくの火のように暖かかった。やがてある日、僕が教室に現れたのを見た彼女は、大粒の涙を制服に落とした。
僕らは東京の大学に進学した。大学は別々だったので、それぞれが部屋を借りた。互いの距離は三十分ほど。僕も彼女も講義やバイトで忙しかったが、多くの時間を二人で過ごした。彼女はいつも、楽しそうに歌を歌う。僕は目をつぶってそれを聴いていた。
二人で旅行に行った。海が見えるところに行きたい、と彼女は言った。しかし宿泊する旅館に着いてから、彼女は体調を崩してしまった。結局、僕らは旅行の二日間外出はせず、部屋でひっそりと映画を見て過ごした。僕は静かな部屋の中、片時も彼女の手を離さなかった。歌声のない空間に僕は怯えていた。彼女の存在が消え去ってしまうと思ったのだ。
「せっかく来たのに、ごめんね」
「ううん、また来ようよ」
―
時は流れ、僕らは就職活動を始めた。まだまだ遊んでたいよ、なんて言いあう。なかなか会えなくて寂しい、彼女は言う。
僕はうまくいってなかった。面接を何社も受け、同じ連絡が繰り返されることに何も感じなくなっていた。彼女は僕も知っているような企業から内定をすでにもらっていた。彼女は僕のそんな状況に、いつも励ましの言葉をくれた。いつからか、僕らはラインでのやり取りばかりになっていた。
僕には何もない。逃げてばっかりだ。高校の時だってそうだった。何かを成し遂げたことなんかない。面接官はそんなことわかっているのだ。こいつは空っぽなんだと。僕は君といる価値があるのだろうか。助けてもらって、僕は何かを返せたのか?
僕は深く暗い穴の中に落ちていった。僕は世界から否定されているような気がして耳をふさいでいた。
ある日、彼女は僕の家に突然やって来た。大きなケーキを持って、「お誕生日、おめでとう」という彼女の言葉。僕はそれをすっかり忘れていた。彼女と会うのはずいぶん久しぶりだった。僕は彼女の作ってくれた料理とケーキを食べ、一緒に映画を見た。
「人生終わるってわけじゃないし、気にしなくていいんじゃない。きっと大丈夫。応援してるよ」そう言って、彼女は歌いだした。楽しそうだった。
―僕は君に必要のない人間だ。
僕は…
「その歌、やめてくれ。
もう聴きたくない。それに、明日も面接で早いんだ」
僕は体の中が急速に冷えていくのを感じた。正面の空の皿に目を落としたまま、彼女の表情を見ることができない。
「ごめん。そんな気分じゃなかったよね。
帰るね」
彼女はそう言って出ていった。外は雨が降っていた。「本当にごめんなさい。お誕生日おめでとう」というラインの通知を映す携帯が、静かな部屋で光っていた。
―
季節がまた一つ終わり、僕は偶然同じ企業に面接に来ていた、ゼミ仲間のユイと会うようになっていた。酒を飲みながら就活の愚痴を言いあい、そのままユイのアパートに行くこともあった。空っぽで、惨めな感情がその時だけ消えるような気がした。逃げるように、ユイの手を握る。何も聞こえない暗闇が心地よかった。
彼女にはユイとのことを話さなかった。たまに二人で会う。しかしほとんど会話はない。彼女は別れ際、いつも困ったように笑って去っていく。僕はそれが嫌だった。
大学卒業もあと数か月という頃、ようやく僕は内定をもらった。大きな喜びはなかったものの、肩に重くのしかかる何かがふっと消える感覚があった。僕はそれをユイに伝えた。それから、ラインで彼女に伝えた。「おめでとう」とすぐに返事が来た。僕は干からびた笑みを浮かべ、「話がある」と返した。
その日はひどく寒い夜だった。
彼女は表情を少しも変えず、「わかってたよ」と言った。
「小さい時から、あなたがわたしを守ってくれて、ずっと幸せだった。でも、やっぱり終わりは来ちゃうんだね」
さようなら。
彼女は席を立ち、待ち合わせしていた店を出ていった。僕の頭の中では彼女の歌が流れていた。ずっと、ずっと。もう長い間、彼女の歌声を聴いていないことを思い出した。
結局ユイとは長く続かなかった。僕らはひどい喧嘩をした。思い出など何もなかった。
―
桜の季節、新しい生活が始まった。彼女はどこかへ引っ越したらしい。高校の時の共通の友人から何か知らないかと連絡があった。以前聞いた住所を手掛かりに彼女の部屋を訪ねたが、もぬけの殻だったらしい。連絡も取れないという。「僕たちは別れたんだ。だからわからない」と僕は言った。
僕は部屋で一人、彼女の歌を思い出している。「ねえ、いっつも何歌ってるの」そう聞くと、彼女は決まってふふ、と笑った。嬉しそうに笑った。そしてまた歌い始める。
そこにいて ずっと ずっと 手をつないで―
僕は自ら手放してしまった。僕に送ってくれた歌。彼女はいつだってまっすぐ僕を向いていたのに。瞳を閉じて彼女を探した。
ふと、外から彼女の歌が聴こえた気がした。僕は急いで外に出る。どこまでも広がる厚い雲、何もかもかき消してしまうような雨が降っていた。聴こえない。聴こえるはずなんかない。でも、もう一度、もう一度だけ。
僕は傘も持たず駆けだした。もう二度と聴こえない、彼女の歌声を求めながら。
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