【短編小説】夏の彼らの一生 5(終)
ジー、ジー……と頭の中で死にかけのセミの声が聞こえる。聞こえ続ける。それは夜になると激しくなる。僕は眠れない。目をつぶっていると、体がだんだん暗闇に溶けだして自分と呼べる部分が減っていく感覚がしてくる。そしていつの間にか僕は、ジーという音そのものになって、無限に続くような夜の底をはいつくばっていた。太陽に置いてきぼりにされた昼間の熱が僕の部屋を漂い、不気味な音を発する僕にまとわりついてくる。
僕は覚醒し、意識はどこまでも鋭くなっていく。それは僕のクミについての記憶に深く突き刺さった。ジー、ジー……。その音は熱で焦げ始めている血液のようにも聞こえた。
クミは自殺だった。アパートの五階から飛び降りた。遺書は残っていない。特段、彼女が何か思いつめているような雰囲気はなかったらしい。だから誰も彼女が命を絶った理由を知らない。
僕はいつの間にか、クミのいない世界で生きていたことになる。スイッチを押すように、クミが生きている世界から、死んでしまった世界に切り替わった。あまりにも簡単であっけない瞬間だった。しかし、この世界に滑り込んでしまったら最後、もう二度と彼女に会うことはできない。彼女のすべては過去になった。僕は生きている限り、彼女からどこまでも離れていく。
僕は抜け殻のように街を徘徊した。自分の魂が体からすり抜けて、広い世界のどこかで迷子になっているような感覚がした。抜け殻に残っているのはクミと過ごした記憶だけ。思い出は背後で肥大していく。現在進行形で積もり続ける虚無感や喪失感を餌にして、それはじりじりと成長する。僕の体の関節には針が刺さり、そこから紐が伸びている。僕は操り人形だった。僕の形をした過去が、後ろから僕を動かしていた。
風にさらわれる砂のように時間は流れ、消えていった。騒がしかったセミの声が、少しずつ減っていった。夏は傾き始めている。
佐藤が僕に会いに来た。わざわざ仕事を休んで新幹線に乗ってやってきたのである。
「別にいいのに」
自宅近くの駅前の小さな居酒屋で彼と久しぶりに再会した。ずいぶん長いこと会っていなかったが、彼の見た目は何も変わっていなかった。
「何言ってんだ。どうやら、俺が来たのは正解だったらしい」
「どこが?」
もうすでに喉が疲れていた。胃は何も受け付けなかった。佐藤が二杯目を飲み終えるまでに、僕は一口しかビールを飲むことができなかった。佐藤と見比べてみると、僕はなんてみすぼらしい恰好をしているのだろう。
佐藤はほんの少し赤くなった頬を引き締め、急に真面目な表情になる。
「お前、死のうなんて思ってないよな」
僕は黙る。言葉に詰まる。
「おい」
佐藤の声が低くなった。
「死にたくなんかないよ」
それは本心だった。死にたくなんかなかった。そして別に生きたくもなかった。どうでもよかった。死んでいないから生きているだけ。死ぬ気力がないだけ。それと、両親が悲しむから。そう。僕が死にたくないのはそれが理由。そういうことにしておきたかった。
「本当なんだな」
「うん。自殺なんかしない」
そんな資格すらない、僕は心の中で付け加えた。ただ、生きていく資格すらも僕にはあるのかわからない。
自殺したクミのことを僕は考えた。佐藤もその言葉で彼女のことが頭に浮かんだようで、腕を組んで難しい顔をしている。
「あいつはどうして……」
「僕にはわからない。もうずいぶん会ってなかった」
「俺もそうだ。お前らが別れたと聞いた後は一度も顔を見ていない。連絡するなんて、本当に簡単なことなんだけどな。もし、あいつが亡くなる前に会っていたら何か変わってたかも、なんて考えちまうよ。ありもしない後悔が傷跡みたいに残ってる」
「佐藤のせいじゃないよ。僕らにはどうしようもできなかったんだ」
そんなことを言いつつ、僕は息が苦しくなる。佐藤に責任はない。でも、僕には?久しくクミとは連絡すら取っていなかった。だけど僕らは六年も友人以上の関係を続けてきたのだ。彼女が僕のことなどとうに忘れてしまっていたとしても、僕は彼女の未来を変えることができたのかもしれない。
―いや、それはただのうぬぼれだろう。六年という期間がどうしたというのだ。それに、時間の止まったような生活に安住している僕に、一体何ができるというのか?
「とにかく、お前は生きてくれ。色々あって、さらにクミのことが重なって、大変だと思うが」
帰り際に佐藤が言った。僕は黙って頷く。
「お前が今、どれほど暗い場所にいるのか、俺にはわからない。
でも、どこにいようが生きるっていうことに資格なんていらない。俺たちは大人になるとそれを忘れちまうような気がする。すべてのことについて何か意味が必要なんじゃないかって気分に襲われるんだ。
生きるのに理由なんていらない。見えるものだけを目指して生きろ。それはたぶん、死ぬ理由を探すことより簡単だ」
それじゃ、と佐藤は手を振る。
「俺はこれを言うためだけにはるばる来たんだ。お前にはもったいない友達だろ?」
そう言って彼は駅近くのビジネスホテルへと消えていった。
ジー、ジー……。僕は歩道に突っ立ったまま、頭の中で聞こえるその音をぼうっと聞いていた。
僕はこのまま、理由もなく生きていていいのだろうか?
寝苦しい夜だった。日々、暗闇の向こうで鳴く虫たちの音色が少しずつ変わっていく。夏がもう少しで息絶え、そのすぐ後ろに秋のシルエットが見える時期。久しぶりに今夜は暑かった。頭は冴え切っている。汗が背中を濡らしている。僕は布団を引きはがし、ベッドに座った。真夜中の二時。僕はそのまま靴を履いて外に出た。
外は部屋よりも涼しかった。シルクのような風が皮膚とシャツの間をすり抜けていく。あれほど耳を騒がせていたはずの虫の声が今は何も聞こえない。暗闇までもが寝静まったような住宅街。なんとなく、クミのことが頭に浮かんでいた。僕はそれが消えてしまわないように、あてもなく歩く。
さようなら、さようなら、さようなら―。
映画で彼女が演じた女性の言葉がどこまでも反復されていく。
右手に公園が見えた。僕が通っていた小学校の近くの公園だ。放課後によくそこへ行って、暗くなるまで友達と遊んでいた。僕はベンチで休もうとその公園に足を踏み入れた。
誰もいない。さび付いた街灯がぽつんと一本立っている。端に追いやられたようにベンチと鉄棒が佇んでいる。ブランコやジャングルジムもあったはずだ。僕はそれで遊んだ記憶がある。遊具の大多数は撤去されてしまったようだ。死にかけの公園、僕はゆっくりと木造のベンチに腰を下ろす。ふと、視界に小さな点が映る。
また、セミだ。
汚染された湖のような色をした街灯の柱に、羽化しようとしている半透明なセミがいた。拘束具のようにも見える茶色の殻から、黒い粒の二つの目、三分の一ほど体が出ている。季節外れのセミ。ここから無事に飛び立てたとして、お前は一人きりで鳴き続けるのだろうか。仲間の多くはすでにその命を終えた。お前はそれを知って、無意味だったと思うのだろうか。
僕はじっと羽化の様子を見ていた。セミはただ無心に、その殻から抜け出そうともがく。羽を広げて、どこまでも広がるあの闇の中へ飛び立つ。その目的以外に何もない。そうすることに意味なんてない。だけどそんな「意味」を持つことに、一体何の意味がある?迷いや憂いなんてない。ただ、死ぬまで生きること。眼前のセミは、僕のことなどお構いなしに、自身のことだけに集中している。僕はこのちっぽけな存在に、ほとばしる力強さを感じた。
どれくらい時間が経っただろう。しかし、あの時と同じようにセミは再び死のうとしている。空に一番近い場所に立ちながら、地上に縛られたまま死んでいく。殻を抜け出す体力はもうなくなりつつある。体の半分以上が出た状態で、動作の一つ一つの間隔が、まるで無限にも感じられるように広がっていく。
お前はここで死ぬのか?死ぬ理由など考えることもなく。
「死ぬな」
僕は声を出してしまった。それは真夜中の暗闇に吸い込まれ、一瞬でもとの沈黙が辺りを満たす。僕は立ち上がって羽化に失敗しそうなセミに顔を近づけた。動きは完全に止まってしまいそうだった。半透明だった体に、死を表すような黒い色が混じりだした。
「死ぬな!」
やがて、セミは完全に動くのをやめた。急激に生物から「もの」に変化していくような感じがした。セミは死んだ。
僕はそれを殻ごと両の掌で包み込んだ。冷たかった。想像以上に軽かった。それは死なんて存在を知らずに死んだ。死、なんていうのは人間が勝手に作り出した、生物として身勝手な考えなのかもしれない。途方もなく大きな自然の法則に、それは従っただけだ。抗うことなんてできない。セミはただ、自分の命が尽きるまで必死に生きただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
僕らはいつか死ぬ。意味なんて挟み込む余地などないくらいあっという間に。
僕は羽化に失敗したセミを、そっと街灯に照らされる地面に置いた。
家に帰り眠りにつく。
そして僕は夢を見た。
真っ暗な部屋の中、僕はベッドで横になっていた。天井を見つめていると、視界の端、何か光るものを捉えた。それは弱々しく点滅し、振り子のように部屋を飛び回っていた。それはしばらく漂い、山積みになった段ボールの一つに止まった。そしてそこで動かなくなる。光の点滅がさらに儚くなっていき、やがてそれは消えた。再び部屋は真っ暗になった。
朝、目が覚めて、夢の中で見た光のことを思い出した。部屋の隅にある開封していない段ボールの山。僕が一人暮らしをしていた頃のものを詰め込んだものだ。実家に送ったはいいものの、それを一つずつ取り出す気にはなれなかった。
夢の記憶をたどり、光が止まったはずの段ボールを開いてみる。衣服や本などがごちゃごちゃになっている。それらを外に出していくと、箱の底に分厚い手帳が入っていた。それは僕が小説を書くときのために使っていた、アイデアやストーリー、登場人物など、創作のためのヒントを記録したものだった。社会人になって、いつしかその手帳は使わなくなった。小説を書くことを辞めてしまったから。
パラパラとページをめくる。懐かしさを恥ずかしさが追い越していく。部屋を引き払うときに捨ててしまったと思っていた。僕は無意識に段ボールに入れて持って帰ってきていたのだ。
四分の三ほどを過ぎると、ページは白紙になった。僕が書くことを辞めた時期に入ったのだろう。そのままページを進めていく。最後のページ、そこに何かメモのようなものが残っていた。
「夢を諦めないで」
それは僕の筆跡ではなかった。僕の頬を静かに涙が伝った。これがいつ書かれたのかはわからない。しかしこれが僕の手元に残る、彼女からの最後のメッセージだった。
僕はずいぶんと長い間立ち止まっていた。僕にはもう何もないと思っていた。何の価値もないと信じていた。でもそれは結局、生きるとか死ぬとか、そういったことには何も関係のないことだった。考えたって、どうなるものでもない。
クミは亡くなった。もういない。どんなに願っても叫んでも、彼女に会うことはできない。彼女が命を絶った理由を、僕は一生知ることができない。
でも僕はまだ生きている。僕にはまだ時間がある。それだけで充分だった。自分を失い続け、クミと過ごしてきた「不完全」な生活を忘れ、社会でやり繰りしていく心を病み、動くことができなくなったとしても、僕はまだ生きている。
生きている限り、どこまでもクミは遠くなって、見えなくなっていく。
それでも、死ぬまで生きなくてはならない。
僕は手帳の途中、空白になったページを開き、鉛筆で文字を紡ぎ始めた。
終