【短編小説】迷子(前編)
にぶい頭痛が夢の外へあふれ出し、僕はようやく目を覚ました。
見覚えのある天井が目の前にはなかった。頭上はどこまでも高く伸び、薄暗い雲までつながっていた。体を起こしてみると、固い棒で殴られたように全身に痛みが走る。僕が寝床にしていたのはところどころに雑草が生え凹凸のある地面だった。見渡すと木製の二人掛けのベンチ、花壇、赤や黄色に変わりつつある葉をゆらす木々、誰もいないブランコ、そして茂みの向こう、歩道を走っている人影。ここはどうやら公園らしい。僕はこの公園の中で一夜を明かしたようだ。
土で汚れたワイシャツ、ベルトが緩んだスーツパンツ、落ちた葉が海苔のようにくっついている革靴。着ていたはずのジャケットが見つからない。服装からすると、僕は職場から家に帰らずここで眠りこけていたということだろうか。足の隣には自分のだと思われるリュックがひっくり返っている。腹を広げて絶命した黒いタヌキに見えなくもない。僕は退勤した後、何をしていたっけ…
そうだ、昨日僕は仕事が終わってから、恋人のアイと夕食に出かけたはずだ。「今日は金曜日だから」それは命取りの合言葉だった。僕らはそれぞれ働く会社での不満や愚痴をアルコールでふやかし、盛大にぶちまけた。僕らは大きな声で笑っていた。不穏な空気にもならなかった、と思う。しかし時間の経過とともに、記憶は霧のようにあやふやなものに変わっていった。僕はそのまま人間的なふるまいを放棄し、家にたどり着くことができなかったということか。こんなことは初めてだった。羞恥が波になって僕を浸し、重くなった衣服のように体にまとわりついた。
それで、アイは?
一緒に暮らしているはずの彼女はどこに行ったのだろう。
彼女だけが無事に家に帰り、いつものようにベッドの毛布の中で夜を越したのか?
少しずつ意識がこの世界に戻ってくるにつれ、体が小刻みに震え始めた。寒い。もう十月に入ったのだ。風邪をこじらせたような高温が続いた東京も、いつの間にか秋を通り越したような気温にまで下がっていた。体の芯まで冷えるには、一晩だけで充分だった。二日酔いの気持ち悪さと相まって、体がちぎれてしまいそうな気分だ。おぼつかない手で地面に転がるリュックを起こしてみるが、やはりその下にもジャケットはない。
今は何時だろう。この薄暗さからすると、おそらく早朝だろう。しかし腕時計がない。揺れる細い手首が心細く浮いているだけだった。ポケットを探り、辺りを見回す。スマートフォンも見つからない。僕は声を混ぜたため息をつき、髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。大げさな動作をすれば少しでもこの状況が改善するかもしれないと思ったのだ。しかしもちろん時計やスマホが突然現れたりはしない。とりあえず真横のベンチに腰を下ろし、深呼吸をしてみたが、煙のような脳の中心では情けなさが一番星のように輝きを増すだけだった。
ジャケット、腕時計、スマートフォン。まさかと思い、リュックを拾い上げ中身を確認する。不幸は見境がないらしい。僕は財布も紛失してしまったようだ。目頭が熱くなるのを感じ、歯を食いしばる。羞恥が徐々に宛先のわからない怒りに変わっていく。僕は舌打ちをした。そして立ち上がった。ここにいたらさらに不幸なことが起こりそうだ。それにこの事件の謎はこれ以上明かされそうにない。
「とにかく家に帰ろう。アイが心配しているはずだ」
―――――――
公園を出てすぐのコンビニの時計は朝の六時半を指していた。僕はそれだけを確認して外に出た。空腹と喉の渇きに襲われていたが、お金を持っていないため何も買うことができない。電車やタクシーに乗ることもできず、仕方なく歩いて目的地を目指す。
コンビニの場所は西池袋だった。僕はどうして池袋の近くの公園にいたのだろうか。昨夜アイと会っていたのは全く違う場所だった。そこから自宅へ帰るのに池袋は通らないし、遠回りになる。こんなところに一人で来た理由が全く想像できない。ここから歩くと自宅まで一時間はかかるだろう。奇妙な事態に理解ができないまま、池袋の駅周辺のビル群を通り抜ける。下水か何かの嫌なにおいが鼻をつつく。
僕はアイへの謝罪の言葉を考えていた。原因は何一つ分からないのだが、謝るべき重大な何かを起こしてしまった気がする。僕は歩みのスピードを速めた。少なくとも僕は自分にとって大事なものをいくつか失くしているのだ。その事実だけでも充分誰かに咎められるに足るものだろう。発見できなかったものたちが何かの間違いで、僕だけを公園に置き去りにしてすべて家にあったら、と強く願う。そしてアイが「バカ」と叱って僕を出迎えてくれたら、いつの日か語られるようなただの笑い話として、この珍事は済んでくれるだろう。
土曜の早朝だというのに、辺りはどこかへと急ぐスーツ姿の人たちが見受けられた。制服を着た学生の姿もある。地上に張り巡らされた駅地下へ続く出入口から、次々と人が排出されそして吸い込まれていく。まるでアリの巣のようだった。目的地に向かって、人々は無表情に僕の視界から消えていく。記憶と所持品を失くし、汚れた恰好で帰路につく僕は、自分が彼らの属する社会から滑り落ちた存在に感じた。
いつの間にか僕は足を止め、道行く人々に見とれていた。どうしてかはわからないが、彼らのことが羨ましく思えた。そんな僕のことを誰も気には留めない。風のようにあっけなくそれらは去っていく。僕は今何者でもないのだ。自分が自分であることを証明できない。免許証も財布もない。スマホもない。それだけで僕は僕の確からしさを途端に怪しく思ってしまう。僕とは全く無関係の誰かが自身を僕だと偽ったとしても、僕は反論できる自信がない。記憶などあてにならない。だって僕はほんの数時間前の出来事を何も覚えていないのだから。
再び歩き出そうとして振り返った時、僕は通行人にぶつかりそうになってしまった。「すみません」と咄嗟に謝ったが、ジャケットを羽織った女性は一瞥もせず、そのまま去っていった。まるで僕は存在していないようだった。
彼らはどこに向かったのだろう。ほんの一瞬で、僕はどこか寂しい場所で一人迷子になってしまったのかもしれない。
僕の中にぽっかりと穴が開いているのに気が付いた。そしてそこには孤独があった。
得体の知れない孤独が生まれると、二日酔いの気持ち悪さや凍える感覚は、それに喰われるようにだんだんと消えていった。僕の体はあまりにも軽やかだった。これほど疲れを感じていない日はずいぶんと久しぶりな気がする。働き始めてから四年目、うまく眠れない日が続き不具合の多くなってきた体が、見違えるように生き生きとしている。不思議な感覚だった。孤独に支配された体は、単純でまっすぐで、それゆえに心地よかった。僕はただ、心に巣食うその寂しさのことだけを考えていればよかった。それを解消する方法を見つけるだけでよかった。
そして、僕の体の空白を埋めることができるのは、きっとアイだけだ。それにしても、どうしてこんなに切ない気分なんだろう。僕はそれを「切ない」としか形容できない自分が腹立たしかった。心の中は大きな川の流れそのもののようで、その水の一滴一滴がどれとも替えが利かない。それを僕はただぼうっと見ている。そんな感覚がする。訳の分からないことに巻き込まれ、いや、たぶん自分で引き起こしたことなのだろうが、頭が混乱して興奮しているに違いない。早く君に会いたい。
なんで、こんなに泣きそうなんだ?
まるで心臓の鼓動だけが「僕」だった。手や足や顔は実体のないものに思えた。もはやほとんど走っているといってもいいペースで歩いている。それでも息は上がらない。苦しくない。それはどうして?
急がなきゃ。急げ。
でも、どうして?
どうしてアイに会うことが一刻を争うことに思えてくるんだろう?
僕は歩きながら涙を流していた。しかし誰も僕を見ていなかった。