【短編小説】夏の彼らの一生 2
「何やってるの?」
僕はそれに曖昧な返事をする。
「あっ、さては変なもの見てるんでしょう」
声を急角度に吊り上げ、クミは僕が向かっているパソコンの画面に首を伸ばしてくる。咄嗟に僕は腕を振り上げて彼女の視界を遮ろうとした。火花が飛び散るように体が熱くなるのを感じた。
画面には文字がびっしりと並んでいる。登場人物「僕」と「君」がそこかしこに配置され、砂浜で海を眺める二人の会話が記念碑のように記されている。彼らがこれからどうなっていくのか、運命を握っているのは僕だ。この先、たぶん僕とクミ以外には発見されない世界。つたない文章の中で二人は幸せそうに生きている。
「小説、書いてるの?」
「うん」
しぼむ風船のような返答。それに対して彼女は言葉を続けない。伸ばした首はそのままで、目だけが文字を泳いでいる。体温が急上昇する。僕はたった今まで作り上げてきた彼らの世界を消し去りたくなってしまった。保存もせずに右上のバツをクリックしたかった。「僕」と「君」の幸福が途端に陳腐なものに見えてくる。クミは静かに体勢をもとに戻し、僕の後ろに立った。
「書き続けてよ」
「え?」
「私は応援する。いいものができたら一番に読ませてほしいな」
彼女はそう言って笑った。クミと付き合いだして間もない頃のことだった。
まるで時間が死んでいるように、この部屋の空気はよどんでいる。今が何時なのかわからないし、どうでもいい。息を何度も吸わないと体が押しつぶされてしまいそうだった。昨夜の記憶がひっくり返ったバケツの水のように飛び散っている。回収不可能で、修復不可能。体内に残ったアルコールの染みが波のように頭を締め付ける。外で叫ぶセミの声がその締め付けをさらに強める。
「嫌い」
僕とクミの間にそんな直接的な言葉が交わされたのは初めてだった。一体、あの短い時間の中で何が起きたのだろうか。なぜ何も覚えていないんだろう。考えれば考えるほど、頭の中で痛みが増すだけだった。
それに対し「嫌い」と返信している自分が信じられない。僕はクミにそんな感情を抱いたことはない。少なくとも、僕の方は―
僕らの関係は長年の雨風のようなものにさらされ、きっとどこまでも曖昧で、何色かですらわからないところまで風化してしまったのかもしれない。僕は知らないふりをしてきた。彼女もそうしてきただろうし、互いにそうしていることもわかっていただろう。僕は彼女に対して、二人がこれからどうするべきなのかという問いを共有することを怠ってきた。
穴だらけになった関係、そしてその隙間にごみのようにたまっていくのは、嫉妬や失望や怒りといったマイナスの感情で、僕はそれを掃除もせずに放置してきたのだ。だから、彼女の僕への感情がもうすっかり凍って、棘のような形をしていたとしてもおかしくはない。
サークルのメンバーからの連絡も特に来ていない。僕はコップ一杯の水を飲み干し、もう一度記憶をたどろうとした。僕たちはどんな話をしただろう。
岡田は最初から論外だ。彼のために開かれた会であったが、一方的に恨みつらみの呪術を唱え続ける彼と話をする隙なんてなかった。佐藤とはどうだろう。いわゆる他愛もない会話だったと思う。久しぶりに再会する人間たちが話す、まるで教科書のような会話。それをたぶん第一章から第六章くらいまでさらったと思う。とにかく、改めて掘り起こせるようなものは記憶になかった。
恵子とクミは盛り上がっていた。クミは彼女の結婚に関することをあれこれ質問していた。僕と佐藤はそれに感嘆の息を漏らしたり、大きく頷いたりしていた。それ以外の話題はなかったと思う。恵子自身、昔から自分が話題の中心になることが好きだった。だからたぶん、解散までは彼女に関するやり取りが本流だったはずだ。僕らの亀裂につながる直接的な話はなかっただろう。
だが、恵子の話の中に間接的なきっかけはあったのかもしれない。恵子と話す途中、クミの声にわずかな変化があったのを感じ取った。彼女は肌をなでる羽のような悲しみを帯びていた。彼女の声と空気の境目に僕はそれをとらえた。クミは何を感じていたのだろう?それが種火になって、彼女の心に黒い煙をもたらしたのかもしれない。
やはりその後からの記憶は霧散してしまっている。肝心な部分は滝つぼの奥底にある。
僕は佐藤にラインしてみた。すぐに返事があった。
「俺も久しぶりに飲みすぎて頭いてー
あれ、お前ら一緒に帰ったんじゃなかったのか?」
どうやら問題は解散した後に起こったらしい。初めから別々の家に帰る予定だったなら、解散の時点で僕とクミも同じ駅から別の電車に乗るはずだ。一緒に帰ったと佐藤が認識しているということは、僕らは同じ電車に乗り、そしてどちらかの家に泊まる予定だったということだ。
僕らは何か口論でもしたのだろうか。あの集まりをきっかけに?それとも僕がどうしようもないことを口走ってしまった?
やっぱり何も思い出せない。自分が腹正しい。情けない。クミは今、僕からの何かを待っているのかもしれない。空っぽだ。感じるのは僕を削り取るように響く頭痛。そして残り香のようにこびりつく不甲斐なさ。僕はこうやって後悔と情けなさにさいなまれながら、少しずつ自分を失いながら生きていることを実感する。そして失ったものが何なのかはその時にはわからず、気付いたころにはもう二度と戻ってこない。
しかし運命は弄ぶように僕の背中を引っ張るのだ。
スマホが震えた。僕はそれを手に取った。クミからだった。
「今日、映画でも見に行かない?」
「あんたなんか嫌い」
彼女はそのメッセージをいつの間に削除していた。
「嫌い」
だから、僕も自分の返信を削除した。
クミが前から見たいと言っていた映画を見に行った。日曜の昼過ぎということもあり、劇場内は混み合っていた。フランスの聞いたこともない監督の作品だった。彼女とは映画館近くの駅で待ち合わせした。クミは普段と変わらない様子だった。昨夜のことは何も言わなかった。まるでそれが行われていなかったように、感想の一つもなかった。
僕はずいぶんと久しぶりに彼女を見たような気がした。僕はぎこちなく笑って、映画館に向かって歩きだすクミの後を歩いた。彼女は綺麗だった。僕はどうしてかこみあがってくる、泣きそうな気持を必死に抑えていた。
彼女を失いたくない、と思った。たぶんそんな予感がしていたんだろう。今更、と付け加えるべきかもしれない。
正直映画にはよく集中できなかった。頭痛と彼女への疑問と申し訳なさとふがいなさ、様々な渦を体内で抑えるのに必死だった。劇場内の静かな暗闇。大きなスクリーンに映し出される一つの物語。その物語がこちらにはみ出してきて、僕らが座っているこの空間を飲み込もうとしている。そして僕らは一時的にあっちの世界の住人になる。僕はそのまま、太陽に追われる影のように消えてしまいたかった。
クミは熱心にその映画に見入っていた。
映画が終わってそのまま近くで夕食を食べた。クミは相変わらず昨日のことを話さなかった。僕も何も言えなかった。肋骨の隙間を風が通り抜けるような感覚がした。パスタと白ワインは味がしなかった。
僕らは通りを歩いた。風があり比較的今夜は涼しい。
「あの公園で休もうよ」
クミが言った。僕は頷いて彼女に続く。駅から離れたところにある、住宅街に囲まれた小さな公園。日曜の夜、誰の声も聞こえない。街灯だけがその責務を全うするかのように輝いていた。二人分のサイズのブランコの前に設置されているベンチに僕らは腰かける。
「あ」
クミは指をさす。その指が示す方、ブランコの四辺を囲む柵の一つに、小さく奇妙なふくらみがある。よく見るとそれは羽化しようとしているセミだった。茶色の殻から青白い体が少しだけはみ出している。時間を小麦粉のようにこねて綿棒で引き延ばしたようなスピードでセミは殻から這い出ようとしている。
「綺麗だね」
僕はそうだね、と言う。
「頑張れ」
彼女はじっと羽化の様子を見つめている。街灯からこぼれた明かりを受け、セミの体は鉱石のように鈍く光っている。神秘的にも見えるし、茶色の宿主から突き破って出てきた寄生虫のようなグロテスクな光景にも見える。
その鳴き声によって毎朝悩まされている僕にとっては、羽化の様子など応援する気にはなれなかった。僕は冷ややかな目でそれを眺めていた。
「あのさ」
セミに視点を固定したまま彼女は呟いた。
「うん」
クミが何を話そうとし、そしてどんな結末を望んでいるか、僕には何となくわかった。僕は彼女の方を向き、静かに言葉の続きを待った。