孫が、まごのて。
最近、冬の乾燥からか、背中が痒い。
「まごのて」で存分に掻く。
親バカ(ばばバカ?)を発動するが、うちの「まご」は優秀である。
すぐに痒いところに手が届いて、私が望むとおりの強度で背中を掻いてくれる。
本当は、あまりボリボリ掻かないほうが良いのだろうけれど。
うちにある「まごのて」は、ばあちゃんの形見である。
「うわぁ、人が使ったまごのて平気で使えるの?」
とドン引きする人がいるかもしれないが。
使う前には一応拭いたし、肉親の使用物だったので、家族が入ったあとの湯船に浸かる…みたいな感覚ではなかろうか。え、ちがう?
今日は、そんなウチの「まごのて」事情についてお話したいと思う。
昔から家にいた「まご」はやや小さめで、丸い指先で、それはそれは優しく背中を掻いてくれた。
かわいらしく、私を傷つけないように、私を気遣いながら掻いてくれる。
しかし、それでは物足りないのだ、すごく。
「痒い」と認識するか認識しないかのタイミングで無意識に掻く、ということができない背中は、さっさとバリバリ掻いてスッキリするのが一番だ。
孫のあまり効果を成さない肩たたきを受けたおばあちゃんのように、少し複雑な気持ちになって、「まご(のて)」を定位置に返す。
その後、母親の元に行って「背中掻いてー、ちがう、もっと右!」などといって、追い掻きしてもらっていた。
家族も同じ気持ちだったのだろう。
私が中学に上がる頃に台頭したのが、竹製の30cmのものさしである。
私が小学1年の頃だかに学校から配布され、もう授業で使うことがなくなった竹ザシは、30cmあり、角が鋭利なため、痒い所に届きやすく、痒みをすぐにおさめることができた。
年数が経って、ガタガタしてきた竹ザシは、もうまっすぐな線を引くために使うことはできないし、少し反り返って線も消えかけている部分があったため、長さを測ることにも適さなかった。
よって、我が家の「まご」は、30cmの竹ザシにとって変えられた。
「え?ものさしで掻いちゃう!?」
と、ドン引きされそうである。
実際、従姉妹は「何してるん!?」と目を丸くしていた。
そして、私が20代半ばの頃、運命の出会いが訪れる。
ばあちゃんが亡くなって1週間後のことであった。
身内が言うのもおかしいかもしれないが、ばあちゃんは、結構お金持ちであった。
高価なアクセサリーや質の良いコートなどが形見として残っていた。
伯母たちは四十九日もあける前、葬儀が終わった翌日だかに形見分けとして、色んな物を持ち帰った。
すみっコぐらしグッズなどが残っているのであれば私も鼻息が荒くなるところであるが、そんなことがあるわけもなし、末の孫(10番目)である私は特に興味がなく、早々に形見分けなんてしてしまう伯母たちを批判的に見ていた。
(まぁ、「すみっコぐらしグッズが残っているのであれば私も鼻息が荒くなる」と書いている時点で、私も同類か…。)
形見分けが行われた数日後、仕事が休みの日に、ばあちゃんの家に行った。
テーブルの上に、ゴミ袋行きを待つばあちゃんの形見たちが残っていた。
形見分けに加わらなかった伯母が、もし何かほしいものがあれば持って帰って、というので、あまり興味も持たずに目をやったところ、いたのだ!
まご(のて)が!!
30cmの竹ザシよりも随分と長い。
(測ってみたら49cmほどあった。それはそれで中途半端か…。)
手先の部分は竹ザシとちがって、それこそ孫の手のようにゆるやかに曲がっている。
竹製で、初代まごのように丸い指先でもない。
竹ザシのように鋭利すぎることもない。
ああ……、なんて掻き心地が良さそう……。
私はうっとりした。
気がつくと、スッと、それはそれは静かに、そのまごを抱きあげていた。(手に取った、とも言う。)
隣で「何かほしいものがあれば」と言った伯母が「ブフッ!」と吹き出した。
以来、その3代目まごは、それはそれは重宝されている。
私の背中になくてはならない存在だ。
まぁ、初まごも竹ザシもまだウチにいるのだけれども。
もし私が亡くなって、まごの貰い手がない場合は、棺にでも入れてもらいたいぐらいである。
嵩張らないし、あの世で背中が痒くなることもあるかもしれない。
まぁ、ばあちゃんの孫である私のさらに孫が、「まご」を引き継いでくれるのも面白いかもしれないけれど。
……さすがに、それは、ばっちぃか。。
あとがき
出勤途中、お昼休み、帰宅途中…などと時間を分けてちょこちょこと書いていたのだけれど、記事を書いているあいだ、ずっと背中が痒かった。
外出先だったので、どれだけ「まご」が恋しかったことか!!
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