#劇場版モノノ怪 ストーリーの個人的な解釈(形・真・理)
今回はおそらく初見で混乱しやすい「ストーリーの理解」に焦点を当てた、いちファンの個人的な解釈と感想です。(「浮世絵風の世界観(美術)」「新・薬売りという存在」も含めると語りたいことが膨大で終わりが見えないため)
※映画と公式パンフレットの内容のネタバレをがっつり含みます。視聴後・読了後の閲覧をオススメします!
2006~7年のアニメシリーズの薬売りさんだったら、退魔の剣は抜けなかったかもしれない。想像と期待の500000倍良かった。素晴らしかったです。全ての不安を塗り替えてくれた。何よりもまず令和の世で『モノノ怪』を映画のスクリーンで見られること!
2007年当時の初見の自分が、ストーリーで最も混乱したのはどの部分だったかを思い返して浮かんだのは、「形・真・理の3つが揃わないと退魔の剣は抜けない」という点でした。
他に類を見ない世界観(美術)や、分かりやすい説明ではなくヒントを散りばめながら進む展開で、目も頭もフル回転するのが特徴のモノノ怪。
退魔の剣のこの3つの条件を意識しながら見られるかどうかで、ストーリーの理解度はかなり違うのではないでしょうか?
「形」「真」「理」の三様を示さない限り、剣は抜けない。
①形(かたち) …モノノ怪となりし妖(あやかし)の名。
→今回は「唐傘」
②真(まこと) …モノノ怪が生まれるきっかけとなった事件の伏せられた真実。
・きっかけとなった事件
→2か月前に行われるはずだった大餅曳(おおもちひき)という安産祈願の祭りが中止になり、その際に1人の女中(北川※前任の御祐筆 / ごゆうひつ)が実家に帰った。
・事件の中で伏せられた真実
→北川は実家に帰ったのではなく行方不明だったが、実はそれも表向きの名目。真実は「御水様」の加護の水を汲み上げる、大きく深い井戸に飛び込んだ自殺だった。
③理(ことわり)…モノノ怪となってしまうほどの深い情念、晴らしたい恨み、届けたい気持ち。
個人的にこの「理(ことわり)をどう受け取り解釈するか」に正解は無く、それがモノノ怪のリアルで面白くて大好きな部分です。また視聴者1人1人が特別感や自分事としての気持ちを得られる部分でもあります。
「泣けた」「モヤモヤした」「共感した」「メインキャラたちは共感も理解もできなかったけどあのサブキャラの気持ちはめっちゃ分かる」「あの描写の意味だけは未だに分からん」などなど…
自力で気づきたい、自分なりの視点で受け取りたいというファンにも根強く愛されるポイントの1つだと感じます。
また、理(ことわり)が明らかになる中で引っかかりなく飲み込めるかどうかは、真(まこと)を正確に理解出来ているかどうかも影響しています。
私はまだ映画を2回しか見ておらず、かなり興奮状態のままこれを書いているので正直なところ記憶に自信がありません…!すみません!現時点の記憶で「北川は自殺で、井戸に飛び込んで死んだ」を真(まこと)としています。
・理(ことわり)である、モノノ怪となってしまうほどの深い情念、晴らしたい恨み、届けたい気持ちとは?
→大奥に渦巻く女たちの情念と御水様に捧げられた(集団に染まる儀式として捨てられた)「大切なもの」が井戸の底(御水様の水)に溜まっていた。北川の自殺をきっかけに全てが混ざりあって溢れ返り、雨として降り注いだ。
誰が、誰に、どんな気持ちを、どうして伝えたかったのか?
誰が? …大奥という集団のために捨てられて来た個人の情念の集合体。「捨てたくなかった」「認められたい、愛されたい、必要とされたい」という気持ちが報われない、現実に対する負の情念。
誰に? …北川を象徴するものは傘を差した人形でしたが、情念の集合体そのものは水や雨として描かれていたと思います。御水様の水が毎朝全員に振舞われていたように、雨が全ての人に降り注ぐように、情念の集合体は特定の個人を狙っていた訳では無い、と感じました。「モノノ怪になってしまった」だけであり、あえていうなら「モノノ怪が執着していたのは大奥という集団やシステムそのもの」でしょうか。
物品を元に意志を持って動き回っていたのは唐傘だけで、実際に人を飲み込んで殺した(人を雨に替えて乾いた死体を残した)のはドロドロと蠢く水の様な存在です。
殺されたのが麦谷、淡島、歌山の3人だったことは、モノノ怪とそれ追う薬売りの近くに居たこと、また役職持ちであると同時に「大切なものを捨てた後悔」「認められたい、愛されたい気持ち」「大奥という集団への執着」が強かったからモノノ怪(情念)の目に留まりやすかったのでしょうか。
どんな気持ちを? …公式ツイートにある「ぐるぐる顏の女中たち」の色の説明が重要でした。
劇中に登場したもう1つの色は赤でした。私は「赤は怒り」だと感じました。どうして、助けて、許して、許さない、忘れたい、忘れたくない、忘れないで、お前のせいだ、私のせいだ、これで良いんだ、捨てたくなかった。後悔や無念や悲しみの籠った深い怒りはまさに情念でした。
どうして伝えたかった? …北川が語った、かつての自分の同期だった女中。大奥という集団でのお勤めのために良かれと思って彼女を捨てた結果、その日から北川の心は乾いてしまいました。「捨てられないほど大切なものはない」と思っていた北川にとって、気づかないうちに彼女の存在が「大切なもの」になっていたのです。気づいた時にはもう遅く、お勤めへの気力を失い髪も降ろして部屋で寝て籠る日々。赤い唐傘に導かれるようにして命を絶った彼女が、自分と同じような境遇を辿るアサとカメに反応したのでしょうか。自分の後悔や無念を誰かに届けたい、それと同時に、同じ過ちを犯して欲しくないという願いもあったと、私は思いたいです。
これは歌山とアサの「恨んでいるのか」「北川様は誰も恨んでいないと思います」(台詞うろ覚え)の会話や、モノノ怪が人を選ばず降り注ぐ雨として描かれたことからもそう感じました。
最終的にカメは大奥を去り、アサはかつての北川と同じく大奥に残って、大餅曳(おおもちひき)でのお勤めを果たしました。その後のアサがかつての北川と違うのは、カメの櫛を帯に挟んで大切にしているところ。カメも豪華な櫛を手土産にしていましたね。(あれはアサの物だったのでしょうか…見落としたかな?または綺麗に着飾る生活を夢見ていたカメへの退職金のようなもの?)
御水様のお社?に繋がっていた赤青黄の3本の縄は、唐傘の退治後に赤色だけが切れました。大奥というシステムが続く限り、また水は死臭で生臭く染まり、御水様のお社には新しい色の紐が繋がれるのかもしれません。いつかきっとまた別のモノノ怪が生まれ、どこからともなく薬売りが現れるでしょう…。
【おわり】何故こんな野暮とも言える解釈を形にしたのか?
について。理由は1つで、今回の映画を応援したいからです!
今回の劇場版は、既にモノノ怪のファンだったり、2006年の怪 〜ayakashi〜や2007年のモノノ怪からずっと応援している立場だと「誰に何を言われようと見る人は見るし、見ない人は見ない」という状態も少なくないんじゃないかと想像しています。
なのでこの文章は、劇場版でモノノ怪というジャンルに初めて触れる人、ストーリーの理解で躓いて本作に苦手意識を持ちそうな人、他人の感想を読むのが好きな人などに届いたら嬉しいです。更に「もう1度見ようかな」と劇場に足を運んでもらえたら本当に本当に幸せです!
最後まで読んで下さった方はぜひ、ぜひぜひ公式パンフレットも読んでください…!
設定画や用語解説はもちろん、制作人のインタビューによる新・薬売りさんの解釈や、本作のテーマ、和紙のフィルター無しのグラフィック(!)など盛りだくさんです。新・薬売りさんの圧倒的”””””美”””””に共に転げまわってください。何卒…
劇場版モノノ怪唐傘の公開、そして続編の決定、おめでとうございます!!
益々の大ヒットを心より願っています!!は~!また見に行こっと!