「比べる」を手放す
わたしは長らく、誰かと、何かと、比べるのが当たり前の世界に住んでいた。
それがいいとか悪いとかでなく、それしか知らなくて、比べる世界に住んでいるということにも無自覚なくらい、当たり前の世界だった。
クラスの中で成績はいいのか悪いのか。
わたしは人より賢いのかそうでないのか。
あの子よりかわいいのかかわいくないのか。
うちは金持ちなのかそうではないのか。
絵は上手いほうなのか下手なのか。
etc…
時に特定の誰かや何かと比べ、そうでなくても一般的にみて、や、相対的にみてじぶんのポジションはどこらへんなのか、という見方が、当たり前だった。
その世界に住んでいた頃は、とても苦しいことが多かった。比べた対象より劣っていると傷ついたり悔しかったり恥ずかしかったり。
何かで秀でても別の何かで劣り、満たされることがない。全てにおいて秀でるなんて不可能なんだけど、何につけても全力で上を目指した。
結果、能力はたくさん身についた。いつもいつも苦しかったわけでもなく、上を目指すこと自体が楽しかったり、上に行けたら嬉しかったり、いいこともあったし、得することもあった。
だけど結局、満たされなかった。
鬱になって、何もかも失った(ように感じ)、長い長いトンネルの中で息をするだけで精一杯の時間がとてつもなく長く続いた。
そこから抜け出した時、比べる世界が終わっていた。いや、終わった、というよりも、比べない世界の存在を知った。
わたしは何者でもない。
けれど、唯一無二だ。
この感覚を体験してからは、比べる必要がなくなった。
比べることもできる、比べないこともできる。それはわたしの選択なのだ。
どちらも知ってみると、わたしにとっては比べない世界の方がとても自然だった。
わたしは和菓子教室を主宰しているが、お手本通りに美しく仕上げることはもちろん大切にしつつ、【じぶんの手から生み出されるこの世にたったひとつの和菓子との出会いを楽しんでほしい】ということを、とても大切におもっている。
誰かと比べて上手い・下手、という世界もある。もっとうまくなって上に行きたい、という選択もある。
同時に、今のこのわたしにしか作り得なかったお菓子がどんな顔をしているか、どんな雰囲気か、出会ってみてわたしは何を感じるか、それらを味わい、楽しむ世界もある。
とはいえ、こんなことを言う和菓子教室の講師なんていないよね〜和菓子にそんなこと求めないよね〜きっと受け入れられないよね〜、みたいなやつがむくむくしてくることがある。
そうおもっているじぶんを感じると、やっぱり誰とも知らぬ誰かを勝手に作り出して比べてるんだな、ていうことがわかる。
比べる世界を選んでいる時は、たいてい怖がっていたり、不安を抱いているじぶんに行き着く。
あぁ、怖いんだね、不安なんだね、と理解できると、安心がやってくる。そして比べる世界が終わる。
比べる世界も比べない世界もどちらもあるけど、やっぱり比べない世界をわたしは生きたいし願っているんだよね、というところに落ち着く。
この世界はたいてい、どっちかしかない、とか、絶対にこれ、などと、白黒ビシッとつくようにはなっていない。
常にゆらぎがある。
それが自然。
お天気に晴れ雨曇りがあるように、わたしの中にも自然のコントラストがあり、常に一定ではない。
それをどっちがいい悪いとせずに、ただそのまんま感じていたいし、わたしがそうやって生きることで、もしも比べる世界しか知らない誰かに比べない世界もあることを知ってもらえたら、この上なく嬉しいなとおもう。
〜自宅&出張和菓子教室 ゆらぎ〜
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