現実の崩壊について〜相対主義、ポストモダン、構造主義、ゆうせい荘、ニーチェ、クリシュナムルティ、インテグラル理論など。
最近、哲学系の書籍やインテグラル理論、発達心理学系の本を読んでいる。
自分が観測した限り、それらに通ずるところがあるような気がするのでメモ代わりに殴り書きをしておく。
端的に言うと、「自分が信じていた現実が物語(虚構)でしかなかった」という発見をする人が至るところで散見されるということだ。
ニーチェが哲学史に大きな影響を与えたのは、「キリスト教的世界観は物語(虚構)にすぎない」というこの一点に尽きるのではないだろうか。
現代日本人の我々の感覚ではキリスト教的世界観についてピンとこないだろうが、現実が信仰によって成り立っているということは大発見ある。
同様に構造主義の代表格であるレヴィ=ストロースは、未開人との交流によって、西洋の暮らし(現実)は絶対的なものではないという発見をした。
いわゆるコペルニクス的転回であるが、西洋の哲学史はこれの繰り返しであろう。
インドの宗教的哲人(この言葉が合っているかは定かではないが)であるジッドゥ・クリシュナムルティは、もっと深遠なことを語っている。しかし、彼の「条件付け」という概念は、構造主義者たちの「全ては構造(システム)の構築物だ」という主張に若干重なる部分があるように思う。
彼は、あらゆるドグマを否定し、条件付けからの解放を説く。
以前noteに記した、ゆうせい荘の気づきもこのことに通ずる。
つまりは、「自分がこれまで生きてきた現実は絶対的なものではない」ということだ。(ゆうせい荘はこの発見によって神経症的な病理に陥っているが)
これらを俯瞰する材料として、ケン・ウィルバーが提唱するインテグラル理論は有用だと感じる。
つまりはこれらはウィルバーが言うところの、ヴィジョン・ロジックの段階であり、グリーンの段階の発見である。
「このように生きるのが正しい」という絶対的真実がある時は問題ないが、それらが相対的なものであるとわかった時に、
「自分は何のために生きている?」といった実存的な問いが浮上する。
このようなことから、オレンジの合理的段階からグリーンの多元的段階への発達が始まるようだ。
現実が崩壊した後、再び自分なりのナラティブ(物語)を再構築するようだ。