見出し画像

『春と私の小さな宇宙』 その71

※ジャンル別不能の不思議な物語です。少し暗め。
※一人称と神視点が交互に切り替わります。
以上が大丈夫な方だけ閲読ください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


事故が起きた後のことは完全記憶能力でなくとも脳裏に刻み込まれていた。目をゆっくり閉じ、当時の出来事を思い返す。


――老婆が腰を押さえ、小さな子供が泣いていた。体を強く打ったのか意識の無い女性
をサラリーマンの男性が何度も声をかけていた。

運転手は割れたフロントガラスの破片で頭部を切ったのか血を流しながらも、乗客の安否を気にかけていた。

車内にいた人たちから死者が出なかったのは、全員、シートベルトをしていたのが大きな要因だった。

この地域では昔から事故が多発していた。そのため交通安全に厳しかった。

すべての乗客がルールを守っていたことで起きた奇跡だと言っていい。当然、ハルもシートベルトをしていた。

あの状況で、ハルはひどく動揺していた。左腕が骨折しているらしかったが、どうでも
よかった。自分の中にいる胎児が気になってしょうがなかったのだ。

自分の身よりも他人を優先している。

その自分の変化に気づき、より動揺した。

赤子は脆弱で無力な生き物だ。事故の衝撃が原因で死んでいたら?

そう考えるだけでおぞましかった。

直接、腹部に座席が当たったわけではない。それでも言いようのない暗く得体のしれない「何か」がハルの思考を支配した。

「私の子を、助けて・・・」

人間は骨と肉の集合体だ。生命活動が停止すれば、生物としての定義を失う。

どれだけ地位があっても、どれだけ技術を持っていても、どれだけ優れた頭脳や肉体を有していても、脳みそに銃弾を撃ち込めば皆平等に死ぬ。

それ以上でもそれ以下でもない。ただ、必
ず死が訪れる。そう思っていた。

だが、それを受け入れたくない自分がいた。こうして実際に、子供の死に直面して、気がおかしくなりそうだった。自身が死ぬことよりも、共存している一個の生命体がただのタンパク質の塊になる方が恐ろしくてたまらなかった。


大丈夫ですか?

乗客たちがハルの元に集まってくる。比較的、被害が少なかった者達である。駆け寄ってきた理由はあきらかで、異様に膨れた腹部が妊婦だと示している。

声をかけてきた者の多くが女性であった。男性の者もいたが後方でおろおろしているばかりで目障りなだけだった。

大丈夫に見えるか?

ハルは正体不明の「何か」が体の奥底で湧き上がるのを感じた。

鼓動が爆心する。心臓が凄まじい伸縮を繰り返えす。身体に響く心音は周囲の余計な雑音をかき消した。

無音の車内。ハルの主観からは気が遠くなるほどの時間が流れていた。スローモーションに動く時間が地獄の業火ごとく精神を焼く。腕の痛みなど、全く感じなかった。

自分の分身ともいえるものが消える。頭のどこかで危惧していた想像が現実になれば、恐らく、耐えきれない。

「お願い、生きて・・・」

ただ祈るしかなかった。
何に祈りを捧げているのかわからない。無神論者であるハルにとって祈りとは、人間のエゴによる形式的な儀式。

望みをかなえて欲しいときにだけ、人は都合よく手を合わせるものだと認識していた。

まさか、自分自身が形の無い、想像の産
物に頼る日が来るとは夢にも思わなかった――。


続く…


前の小説↓

第1話↓

書いた人↓


いいなと思ったら応援しよう!