栗拾いという語彙について
栗をとるときは熟語として「栗拾い」と言いますが、これは実際に栗を収穫している人間にとっては違和感のある語彙なんですよね。
新鮮な栗を得るためには栗を叩き落すのであって、しかもイガをむく必要があり、ただ拾うのではないから。ドングリは確かにドングリ拾い。でも果物は一般的に「りんご狩り」「りんごとり」のように「狩り」か「とり」「採り」「もぎ」なのに、栗だけは「拾い」。もちろん、落ちているのを採るのだから「拾う」でいいのではないかと言ってしまえばそれまでですが、ふと深堀りしたくなってきまして、その語彙の成立の歴史を考察してみたいと思います。
三
枚のお札にみる、栗拾いの違和感
有名な昔話である三枚のお札ですが、栗を実際に採っている人間からすると違和感のある部分があります。それは「栗を拾っているうちに山を越え道に迷った」という部分。栗は収穫期になるとかなりの量が採れ、山に生えているような巨木ではすぐいっぱいになる感覚です。
子どもが背負う程度のかごであれば、数本回ればすぐ終わりそう。なぜこんなことに?
現代の栗採りと昔の栗拾い
僕はこの点について説明できるかもしれない現代と昔の違いについて次のように考えます。
・現代ではゴム製の底を持つ靴で栗のイガを剥けるが、昔はそうではない
・現代の栗は昔の栗の3~8倍近いサイズがある
・現代の栗は剥きやすいよう品種改良されている
現代の栗採りでは、ゴム製の長靴や厚底の靴でイガを踏んで中身を取り出します。しかしそういう履物がない時代でも栗のイガは鋭く、草履のような履物は突き抜けますし、下駄でもつま先でつついてしまうと刺さります。昔の履物で現代のようにどんどんイガを剥いていくのは不可能です。現代の火ばさみのように使い勝手の良い道具も普及していたとは考えにくい。よって、昔の栗採りは「すでにイガから自然に飛び出したものを拾う」のがメインとなると考えられます。
そして栗のサイズ。ヤマグリと呼ばれる栗は、現代の栗よりずっと小さい。大小さまざまなばらつきがありますが、よく見るのは現代の栗の半分ほどの直径です。現代の栗の直径がヤマグリの2倍であれば、体積は2^3=8倍、直径が1.5倍としても体積が3.375倍です。
さらにイガの開き方。ヤマグリはなかなか開かない一方で、現代の栗はパカっとほぼ開いているものも多い。これは品種改良によるところが大きいですが先の栗のサイズの問題と合わせると、「栗の採集効率」という問題につながります。
栗を採取する作業工程の効率問題として、ヤマグリは「イガ自体が小さくて剥きにくい上、得られる栗本体も半分以下」つまり、イガ一つに関わるコストがとても高いのです。ヤマグリのイガを開くのに2倍の時間がかかると仮定すると、単純計算で、同じ量(体積)の栗を得るには、現代の栗に比べて体積で3.375倍、イガの難しさで2倍の6.75倍の時間がかかることになります。仮に、ざっと10kgの栗(そこそこの大きさのかごいっぱい)を得るのに、現代の栗で2時間かかるならヤマグリは13.5時間、つまり半日以上かかる計算です。
まとめると、ヤマグリはただでさえ大量に採取するのが大変なのにイガも開きにくいために、一々イガを開いている暇などない品種であるということです。つまり、ヤマグリはひたすらに拾い集めるのが正しい戦略なのではないか、と推測するわけです(そしてそれでも時間がかかるので、三枚のお札の小僧さんも山を越えてしまったわけです)。というわけで、ヤマグリに関してはまさに「栗拾い」が完璧に描写として正しく、「栗採り」「栗狩り」「栗もぎ」は語弊があったのでしょう。