有耶無耶論
時々自分の存在や生きる理由について考える。考えてはみるものの、なぜそんな「高尚」の真似事をしているのかと思って、自身の存在の理由付けを有耶無耶にする。
いわゆる「偽厨二病」である。
白黒はっきりしないことがある。この世の全ての事象において。
私は大学生なのでレポートを書く。以上に述べたようなあらゆる事象についてレポートを書く。ある程度の知識があり、それに対する解答を思考の結果導き出せる人間ではない故に、その解答を「有耶無耶」にする。状況による、とか、ものの見方による、とか、立場に寄る、とか。そのようにして白黒つけないことを「良い事」として纏める。
本当はまとめてしまうと言いたいところである。自分の考えに自信が無いゆえに、そのように結論づけてしまうのは「逃げ」なのでは、と。
有耶無耶とは、物事の結論をはっきり提示せず、曖昧になっていくこと、らしい。
人生において面倒臭いことは全て有耶無耶にしてしまう。人間そうしないと心が休まらない。
そして自分が今何について書いているのか、わからなくなっている。何を言いたかったんだろう?
まあ要は、心に余裕を持たせるためには、「有耶無耶」がある程度必要である。という「逃げ」について書いたのだと思う。
中身がないと言ってしまえばそれで終わり、
なんでこんなことを書いたって?
夏目漱石の「中味と形式」を読んだからである。
このnoteは読書感想文でも、解説文でも無い。
ただちょっと自分語りしたかっただけである。
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